(6)

 桃木辟邪術は生者を保護するために用いられるが、死者の保護のために用いられることもある。長沙馬王堆1号漢墓葬には33の桃梗が見つかっているが、すべて内棺の蓋板の上に置かれていた。桃梗の長さは8センチから12センチと不揃いだった。この小桃梗をどうやって作るかと言えば、まず桃樹の枝を取り、真二つに割る。一端を削って三棱(稜)形にし、中間の背の部分に鼻を作る。その両側に墨で点を描き、眉と目を作り出す。桃枝のこの一端が人形(ひとがた)であるほかは、桃枝のほかの部分は未加工である。少数ではあるが、桃梗が未加工の桃枝で代替されているものもある。

 考古学者桃人の作り方や墓の中の置かれた位置を根拠に、これが辟邪の物と推測している。墓の中の桃梗の役目は、鎮墓獣や画像石の上の方相氏と輔首[中国の伝統的門飾。動物の顔が環を銜えていることが多い]に似ている。これらは地下の邪崇を駆除するために用いられる。そして遺体の安全と霊魂の安寧を保証する巫術霊物なのである。漢墓から出土した桃梗の実物は、漢代でも近現代でも日常的に桃梗が用いられてきたことを類推する根拠となる。曹魏議郎董勲が言うには、当時作った桃神は、桃木の上に作った「画いて作った人首」であり、「画作人首」とは、三棱桃木に墨汁で描いた眉目のことだった。


 桃木辟邪術のなかでもっとも手軽で便利な方法とは、特殊な桃木制品を身につけることだった。春秋の時期、斉国には邪崇を避けるために桃(とうしょ)という武器を佩帯する風習があった。殳とは秦代以前の武士が常用していた武器で、もともとは竹片を合わせて作った多棱杖だった。佩帯するために桃殳は短い桃木から実用に合わせて作られたものだった。

 伝説によれば、斉桓公は出遊したとき、たまたま桃殳を身につけた男子と出会った。斉桓公がその名称、由来、用途についてたずねると、男子は答えた。

「これは二桃というものです。桃は「亡」という意味であり、喪失、滅亡を表しています。毎日桃を見ておりますと、ときに自分が危機に瀕していることを教えてくれます。細心の注意を払って事にあたったところで、禍患を防ぐことができましょうか。征服者は国が滅ばないよう諸侯を用いて警戒に当たらせますが、同様に、平民はこの桃を用いて警戒に当たらせるのです」。

 斉桓公はこの男子の論を称賛し、喜んでおなじ車に乗って(宮廷に)戻った。正月がやってくると、斉国の庶民がみな(この男子を)手本にして、桃殳を身につけるのが大いに流行した。

 この故事は漢代の学者が書き記したものである。漢代の学者は政治学や倫理学の観点から秦代以前の宗教や巫術を解釈するのを好んだ。上述の斉国男子が桃殳の用途を説明するのでも、実際、漢代の儒学の観点から述べているのである。これは歴史的な事実の解釈と一致しない。

斉国庶民は国君がある種の徳行を称賛し、手本とするよう言っているのを聞く。これが全国的に習俗として流行する。これ自体奇妙な描写である。斉国の庶民がみな良き心を持った聖人になったかのようだ。しかし断言できるが、桃殳の佩帯は自警自励の道徳修養法ではない。あくまで桃枝を挿し、桃梗(桃木で作った人形)を立てる辟邪巫術の一種なのである。