第2章 3 桃の魔除け (下) 霊物と処方 

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 桃木と関連するもの、たとえば桃灰、桃湯、桃膠、桃蠹など桃木に、巫術を信仰する者は超自然的な魔力が付着しているとみている。そしてしだいにそれが鬼を除き、邪を避けることのできる巫術の霊物とみなすようになった。

 巫術の「桃灰」とは、桃樹の枝や葉を燃やしてできた灰を指す。古代の呪医はつねに「燔」(あぶる)ことによって薬を精製した。桃灰は鬼を鎮めるために用いられた霊物で、この伝統と関係が深かった。

 漢武帝のとき広川王劉去の妃陽成昭信は、この種の呪術をおこなったという。陽成昭信はまず劉去の幸姫(愛妾)の王昭平、王地余を殺し、王妃の地位にいて、劉去の幸姫陶望卿に死を迫った。陽成昭信は病気で臥せているとき、王昭平の鬼魂(たましい)が騒ぎ立てる夢を見た。彼女は陶望卿も報復にやってくるのではないかと恐れ、「女性器を杭で刺し、鼻と唇を割き、舌を切った」だけでなく、「望卿を腐乱させて霊とならないようにした」。つまり彼女が試みた方法は、陶望卿の遺体をばらばらにし、「大鍋の中に入れ、桃灰と毒薬を混ぜてじっくり煮込む」のである。毒薬がどういうものであったかはわからないが、桃灰の性質は明確だ。「霊にさせない」鬼魂鎮圧を専門とする呪術霊物である。

 桃木を煮て作った桃湯(桃スープ)を鬼怪にかける。こうすることで古代巫術は鬼怪を発見することができたのである。これは桃木の神秘的なパワーを用いたということだが、沸騰水で鬼怪を殺すという意図もあった。

 地皇二年(21年)、前漢から政権を簒奪した「新」皇帝王莽(おうもう)は内外において苦境に陥った。重苦しい政治的圧力のなか、意識下に前漢朝廷に対する罪悪感を持った王莽はつねに漢高祖劉邦がやってきて譴責する夢を見た。鬼神を信じる王莽はこの種の悪夢を恨み、また恐れた。劉邦の鬼魂がまたやってきて暴れないようにと、王莽は自分の親衛隊である「勇猛武士」を派遣し、劉邦が神として祭られている廟の中で呪術を実行した。まず廟内で剣を振り回し、四つの方向で刺す仕草をした。また大きな斧で門の窓を壊し、四方に桃湯を撒いた。そして赤い鞭で壁を叩いた。さらに徹底的に幽鬼を抑えるために、王莽は軽車校尉率いる士兵を高廟の中心に駐屯させた。そして中核軍の北塁(砦)から選んだ部隊を高廟のその他のエリアに駐屯させた。こうした巫術の行為の中での桃湯をかける行為が注目される。これは原始的な桃木辟邪術から派生したあたらしい辟邪法である。

 桃湯をかける術は隋の頃まで方士に好まれてきた。隋文帝楊堅のとき、太子の楊勇が「自分の住んでいる東宮には鬼気が感じられます。鼠妖がいつも騒いでいるのです」と報告した。そこで楊堅は当時有名だった方士の萧吉を派遣して厄払いをさせた。萧吉は東宮の宣慈殿に神坐を設置し、東北の鬼門からつむじ風がやってくるのを発見した。彼はすぐに桃湯を用意し、ヨシのたいまつで宮門から邪気を払った。萧吉と王莽の間には五百年の月日が流れているが、人を驚かせる鬼の駆逐法はそっくりである。呪術の持つ生命力は人間の想像を越えてはるかに力強いものなのでる。