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 『淮南万畢記』に「孤桃枝の券、令鶏夜鳴」[券は売買や債務の契約を示すもの]の法術が記されている。注釈によると、この法術は南北の桃枝を要求する。「孤立した桃の南北に伸びた枝を取る。長さ三尺。折って券となす。三歳の雄鶏の血を塗って夜鶏の棲み処の下に置くと、すなわち鳴く」。

 変異を求めるため家禽に呪術をかけているのである。後漢の時期、東方の桃枝の迷信はまださかんでなかったのだろうか。具体的な原因はわからないが、これが特別な例であるとはいえそうだ。古代の巫医が西方桃枝に触れることはほとんどない。これは西方と伝説中の鬼を捉える門神および大桃樹の距離がはるかに大きかったからだろう。


 桃木辟邪術は民間に広がる間に変化したり、分化したりした。『千金方』に言う、「五月五日に東に向く桃枝を取り、日の出前に三寸の木人(木の人形)を作り、それを衣服の中に入れる。そうすると人は忘れない」。これは健忘の治療法である。

 しかし古医書『枕中方』には同様の法術が書かれているが、用途はまったく違う。この書は述べる。「五月五日に東引桃枝を取り、日の出前に三寸の木人を作り、衣服の中に入れて携帯する。世は高貴であり、自然と異性を敬愛するようになる」。これは相手方を特別とし、異性を敬愛するよう施術する法術である。両者の記述はよく似ているが、古い時代から分化は始まっていた。

「令人不忘」(人に忘れさせない)は解釈が二つに分かれてきた。『千金方』は病理的に記憶力がよくないので「不忘」(忘れないようにする)と理解した。『枕中方』は感情方面の成功を「不忘」(忘れないようにする)と理解した。すなわち人が忘れず、永遠に愛慕してくれるという意味である。

 敦煌の方術書に記載される桃梗致愛法によると、『枕中方』のほうが原始的で、『千金方』のほうが新しい。「不忘」の解釈が異なったため、内容に変化が生じたのかもしれない。施術者の意識からこうした変化が生まれたのかもしれない。