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棘類の植物の中でも「牡棘(もきょく)」と呼ばれる種類がある。おそらく刺(とげ)がことさら大きく、とくに鋭利で、巫師が重視するのだろう。
『日書』「詰篇」に言う。もし人がどうしようもなく厲鬼の絶え間ない攻撃を受けたなら、「桃木を弓とし、牡棘を矢とし、ニワトリの羽根を羽とし、これを射れば、すなわち止む」。巫師から見れば、牡棘の矢は一般の刺矢よりもはるかに威力があるということである。秦国の巫師は牡棘から牡棘剣、牡棘刀、牡棘錐を作り、鬼怪を刺し殺した。
『日書』「詰篇」に言う。「暴鬼」はいつもすさまじい勢いで人を責める。しかし「牡棘の剣で刺せば、すなわちもうやってこない」。また「不辜(ふこ)鬼」(無罪鬼、冤罪鬼)はいつも人を脅す。「牡棘の剣で刺せば、すなわち止む」。[不辜鬼とは、冤罪で処刑されたり、間違って殺されたりした人の魂が死後変じたもの]
この二つの文では、牡棘の剣が悪鬼を刺して撃退することができると述べられている。
同じ書の中で、悪鬼が家の中に入り、眠っている人を昏迷させることがあると記されている。こうなってしまった部屋に人はもう住めない。
悪鬼を駆逐する[いわゆるお祓いをする]には、まず桃杖で部屋の四隅と中央をはたく。そのあと「牡棘刀」で庭の塀を叩き切る。切りながら叫ぶ。
「とっととここを去れ! 今日はもう来るんじゃないぞ。来たら牡棘刀でおまえの服を切り裂いてやる」.
この法術によって災いを免れることができる。以上は牡棘刀で邪悪なものを駆除する典型的な例である。
「詰篇」にまた言う。もし哀鬼がまとわりついて病人の顔に生気がなくなったら、「棘錐(きょくすい)」と桃木刀を病人の心臓に打ちこむといい。哀鬼は必死に逃げていくことだろう。また棘錐というのは牡棘の錐のことだろう。
秦の巫師は棘煙、棘火の利用を重要視していた。『日書』「詰篇」に言う。酷暑の季節に屋内にいて「どうしようもなく寒く感じる」。これは「幼蠪(ようりゅう)」という神虫の為せる怪である。室内で牡棘を燃やすと、この虫は自ら逃げ出すという。もし死んだ妻や妾、友人が戻ってきて祟りをなすなら、莎芾(しゃふつ)[莎草はかやつり草。その球根は香附子と呼ばれ、薬となる。芾は蔓(つる)植物で、紐(ひも)として用いることができる]を用いて、牡棘から作ったたいまつに火をつけ、(たいまつを照らして)鬼魂が二度と来られないようにする。
古代中国において、荊類植物のなかでも牡荊(ハマゴウ)の木は巫術の霊物として常用された。『淮南万畢術』に「南山牡荊、病を癒やせる」とある。
後代の術士は力を込めて言う。枝が「対生」でない牡棘を探す(牡棘の枝葉は一般的に「対生」、すなわち互いに反対方向に生える)。月が暈(かさ)をかぶった夜、削って病人の身長と同じ長さになった荊杖を床の下に放る。「病は危険といえども無害である」(本草綱目)。
漢武帝は南越を討伐したとき、敵軍、すなわち南越を「厭勝」する霊旗を作らせた。その霊旗の旗杆は牡荊でできていた。
葛洪『抱朴子』「雑応」は武器による傷害を受けない方法を紹介している。「牡荊を取り、六陰神符を作る。これは敵に対する符である」この観念と行為は、古代の術士が牡荊を霊異なるものとみなしていたことを示している。
牡荊が巫術霊物となったのは、古代の刑罰と関係があるかもしれない。荊の枝、棘の杖を用いて犯罪者を打つのはもっともありふれた刑罰だった。戦国時代、廉頗(れんぱ)が荊を背負い、藺相如(りんしょうじょ)にむかって罪をわびたのが一例である。[訳注:藺相如や廉頗は漫画『キングダム』に登場する]
荊条(細長い枝)や荊杖の刑具を作るときは、一般的に牡荊から採った。牡荊の別名は「楚」であり、牡荊から作った刑具も「楚」と呼ばれた。古書では苦痛を形容するとき、楚毒、痛楚、酸楚といった言葉を使う。これらは棰楚の刑の激烈な痛さから生まれた言葉である。「人が恐れる鬼も恐れる」という考え方から、巫師は牡荊を超自然的な力があるものとして利用したのだろう。