第2章 5 桑信仰と魔除け 

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 先祖が養蚕および糸繰りを発見して以来、桑樹は人の生活と密接な関係を保ってきた。桑樹は人類に衣履冠帯(衣類、くつ、帽子、帯)という利器を提供してきた。ほかにこれだけの大きな利益を生む樹木はなかった。この特殊能力は天の神が授けたのだろうと人は考えた。特殊な才能を持った桑樹が神樹とみなされるのは当然のことだった。

 古代中国の神話に桑樹に関するものが多いのは、人間の神樹崇拝を反映していた。『山海経』「中山経」は宣山上に「帝女の桑」があったと書かれている。この桑の樹は五丈(15m)あり、葉は一尺(30センチ)もあった。洹(かん huan)山には三本の桑樹があった。枝はなく、百仞(200メートル以上?)の高さがあった。湯(暘 よう yang)谷に扶桑があり、十個の太陽を伴っていた。「九日(太陽)は下枝にあり、一日(太陽)は上枝にある」。この扶桑神話は社会に認識されるようになり、また神話を愛する者たちはそれを拡充し、発展させてきた。

 漢代にはつぎのように言うようになった。東方の暘谷は太陽がはじめて昇った場所である。そのなかから巨大な桑樹が成長してきた。名を扶桑、榑桑(ふそう)、若木といった。太陽はこの桑樹の幹をよじ登っていき、ゆっくりと上昇し、天空にいたる。扶、榑はともに大きいという意味があり、扶桑、榑桑はつまり大桑である。のちに伝説中の扶桑はさらに高く大きくなる。人によっては扶桑は高さ八十尺、葉の長さ一丈、桑の椹(実 しん)は三尺五寸もあった。ある人に言わせれば、高さ数千尺、幹の太さ二千囲(1囲は両腕で抱えるほどの大きさ)もあった。桑の実は九千年に一回成り、金色に光輝いた。ある人いわく、それは天と並ぶほど高く、根は泉と通じた。

 桃樹を崇拝しているので、人は度朔山と大桃樹という神話を作り出した。おなじ理屈で神話編纂者は扶桑を巨大なものとして描き、桑樹を崇拝したい自分の心の欲求を満たした。桑樹が普遍性を得るためには、一般の表現では物足りなかった。それで桑樹に霊的な観念を与えたのは合理的な根拠があったのである。

 桑樹崇拝ははじめ東方の民族の信仰だった。扶桑神話に関していえば、東方神木から扶桑神話が生まれたことがわかる。桑樹崇拝が普及し、発展したのは、東方の商族が果たした役割が大きかった。商族は桑樹が繁茂した山林を崇拝していた。そのなかに非常に力のある神霊が宿っていると彼らは信じた。彼らはこういった神霊を「桑林」と呼んだのである。

 商王朝の開祖湯(商湯王)は桑林に向かって祈り、雨を求めた。商王朝が倒れたあと、周人は商の紂王の庶兄微子啓を宋国に封じた。そして「代々長候とし、殷を守りつねに祀り、桑林を奉じた」。桑林は商族の代表的な神祇のようである。

 墨子はかつて言った。宋国は桑林を祀る。燕国が「祖」を、斉国が社稷を、楚国が「雲夢」を祭るのとおなじである。これは老若男女が参加する盛大な集会なのだ。

 宋国では天子のみが桑林という大型の舞踊を楽しむことができた。これはもともと桑林を祭るときのみ許される舞踊だった。こうした事実から商族の桑樹に対する信仰が深く大きいことがあきらかだった。商王朝が建立され、商族の宗教信仰やその神話は、彼らの青銅器の鋳造技術とともに四方に伝播することになった。それとともに桑樹崇拝も広く受け入れられていった。