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 桑樹崇拝を基本とする桑木辟邪術は種類も多く、古代の社会生活において広範囲にわたって影響を及ぼしてきた。『礼記』「内則」の記述によると、周代の国君の嫡子が誕生したあと、大門の左側に弓が掛けられた。そして三日目に父親と子供が対面する接子儀式がおこなわれた。接子儀式でもっとも重要なのは、矢を射るのが専門の「射人」が「桑弧蓬矢」、すなわち桑木弓を用いて蓬草箭(や)を天地四方に向かって六連発射ることだった。

鄭玄の解釈によれば「桑弧蓬矢、そのもとは太古にさかのぼる。天地四方、男子のすべてである」。鄭玄は、桑弧蓬矢の使用は太古の時代のやり方の模倣とみなしている。天地四方へ矢を放つのは、太子が長じたあと四方に志をいだき、すべてを成就することの予祝なのである。この種の解釈は、しかし問題の本質に触れていない。

 孔穎達(こうえいたつ)『礼記正義』に言う、「蓬(よもぎ)は御乱の草である。桑、衆木の本である」。古代の桑木崇拝に関し、古人が辟除邪祟に桑木を用いたことから見るに、孔穎達の言っていることは納得できる。

接子儀式に使用する桑弧蓬矢は、その用途において、古代につねに用いた霊物を組み合わせた桃弧棘矢とよく似ているのである。桑弧蓬矢を天地四方に放つのは、桑木と蓬草の超自然的力を利用して、天地四方からやってくる邪悪なものを駆逐し、太子の無事を守るためである。これは攻撃的な巫術活動であり、鄭玄が言うのちの太子のすべての成功を願う祈祝儀式とは思えない。


戦国時代以降、五行学の影響を強く受けた術士は懸弧儀式や接子儀式に新しいスタイルを持ち込んだ。彼らは本来の素朴でシンプルな巫術的な儀式を加工してより整然とした、変化にとんだ儀式となった。

 賈誼(こぎ)『新書』「胎教」が引用する『青史氏之記』は言う、太子もためにおこなう懸弧(=弓)儀式には、五種の木材を使用せねばならないと。すなわち東方の梧弓、南方の柳弓、中央の桑弓、西方の棘弓、北方の棗弓。あらゆる弓には五本の矢がそろっている。それぞれの矢を持って各方向に向かい(中央は空に向かって)三本の矢を放つ。そのあと東西南北の弓と余った矢を都の四つの城門の左側に掛ける。中央の桑弧と余った矢は社稷門の左側に掛ける。

繭に自らを縛らせるのは、実際実現不可能だが、桑弓を中央の弓と規定することはできる。つまり桑木の地位は依然として一般の樹木より高いのである。