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 秦簡『日書』「詰篇」は何度も桑木駆鬼法術について論じている。このなかで人は鬼による原因不明の症状に悩まされると述べている。これは人をもてあそぶ「攸鬼」(攸は上部が攸で下部が羊)の成した怪である。桑樹の樹心から作った杖を用いて、攸鬼が再来したとき逆手に取って攻撃する。すると鬼は驚いて死んでしまう。

 またこのなかに「図夫」という鬼が人に悪夢を見させると述べている。夢を見た人は目が覚めたあと、どんな鬼怪によってなされたのかわからない。しかし門の内側に桑木の杖をもたせかけ、釜を門の外に留めおけば、図夫が二度とやってくることはない。この二つは典型的な桑木辟邪術である。

 『日書』「詰篇」にはもう一つつぎのような箇所がある。犬の形をした鬼がよく夜間に寝室に入り、男子に襲いかかってかみつき、女子をからかったが、人はそれを捕まえることができなかった。神犬が鬼に扮していやがらせをしたのである。桑樹の幹の皮を処理し(ここの部分は欠落している)、精製して薬を作り、飲み下すと、鬼怪は祟りをやめる。鬼怪を防御するために桑樹皮を内服するのは、桑木辟邪術の特殊なバリエーションである。


 前漢の哀帝のとき、一度は宜陵侯として封じられた息夫躬が官職を解かれ、京城から追放された。息夫躬は宜陵にやってきたものの、身の置き所がなく、しばらくは空亭[ひっそりと静まり返った庭園のあずまや]に滞在した。近くに盗賊の集団があり、息夫躬が侯に封じられたことを知り、金目のものを身につけているだろうと考え、夜間から様子を盗み見ていた。息夫躬の同郷の賈恵はこの動きを知り、彼に「祝盗方」、すなわち盗賊に対する呪詛の法術を伝授した。[この祝は呪に近い。方は処方の意味]

 その法術というのは、まず東南に向かって伸びる桑樹の枝から匕首(あいくち)を作る。匕首の上部に北斗七星を描き、夜になったあと、施術者が髪を振り乱して庭(庭院)の中央に立ち、北斗に向かい、桑木匕首を持って盗賊を呪詛する。祝盗方を考案した人は桑木匕首の使用を強調する。これは桑木が特別な制邪の効能を持つと信じているからだろう。言うまでもなく、祝盗方には桑木の超自然的な力だけでなく、北斗七星の神秘的なパワーが加わっている。


 古代の文人は「談鬼説狐」(鬼や狐を談じる)を好んだ。彼らは聞いた話をもとに鬼狐故事を作り上げた。しばしばそれらは巫術的なものから、あるいは巫術の実践から生まれてくるものを反映していた。

 清代の大詩人袁枚は談鬼の名手で、彼の作品『子不語』の題名には「怪力乱神」の意味があった。『子不語』続編には「山魈(さんしょう)桑刀をおそれる」という短文が収録されている。その内容と『日書』「詰篇」、漢代の祝盗方は互いに話を裏付けあっている。

 袁枚は述べる。常山山中に山魈が出没する。当地の人は見慣れていて、奇怪と思わず、それを「独脚鬼」と呼んだ。独脚鬼はいつも反対に(後ろ向きに)歩いていた。それにはつねにまわりで強風が吹いていた。当地の人が言うには、この種の三鬼はひどく桑刀をおそれる。桑の老木から桑刀を作り、それで軽く振り回すだけで簡単に山魈を斬り殺すことができた。桑刀を門に掛けるだけで山魈は遠くに逃げ去ったという。

 清代の常山の土着の人は桑刀を用い、戦国時代の秦国の術士は桑杖を用い、漢代の息夫躬は桑木匕首を用いた。あきらかにこれらは同一の武器である。巫術的な考えや巫術的な手法は二千年隔てても色褪せない。巫術迷信は人を驚かせ、畏怖させる。それが継承されるだけの力を持つことが反映されているのである。