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 伝説によれば商湯王の在位中、七年も旱魃がつづいたことがあった。この状況を打破するために、商湯王は白馬素車に乗り[白馬に牽かせた白土を塗った車に乗って]、粗布の衣を着て「身に白茅を着け、身を犠牲とし、桑林の野にて祈る」。なぜ自分を神霊にささげるとき、白茅をつける必要があるのだろうか。あきらかに当時の人は白茅が人と神を交流させる特殊な力を持っていることを知っていた。白茅を身につければ祭祀者の意向を神霊が了解してくれると信じていたのである。


 『周礼』によれば、周王朝は男巫という官職を設けていた。彼の仕事の一つは手に白茅を持ち、四面八方に向かって神霊を召喚するというものだった。遠方の鬼神を請来するとき、彼らを祭祀することもあれば、そのなかでもとくに悪鬼に向かって責め立て、呪詛することもあった。召鬼術は直接鬼を駆除するわけではなく、順序良く鬼の活動を取り除いていくというものだった。

 『周礼』はまた言う。王室が祭礼に用いる道具を作るとき、各職員は集団で何かをすることもあれば、分かれて共同作業をすることもあった。あるときは原料を提供し、あるときは何かを製作した。苴(しょ)もその一つである。王室の公田を管理する甸師(でんし)[王直属の田を掌る者]は白茅を提供する。巫師の長である司巫が白茅を加工して苴を完成させる。

 ここで注意すべき点がある。茅草を切って小分けして束にし、苴を作るとき、複雑にしすぎてはいけない。この過程で巫師が必要だった。祭品の茅苴は直接神霊と交流すると考えられたのである。神霊と通じる巫師だけがこのような祭品を作り、提供できると信じられていた。神霊を満足させられるのは彼らだけだった。男巫は茅で神を招き、司巫は茅苴を提供する。白茅は巫師が常用する通神霊物であるだけでなく、その霊化が祭祀制度と関係深いのは間違いない。


 『周礼』は、少なくとも一部は周代の法制制度について述べた書である。書中に巫師が白茅を用いて神を招くことが書かれているが、ある意味、一般的な習俗にすぎない。

 『晏子春秋』の中で、春秋時代の巫師が白茅を用いて神を招き、駆邪する具体例が述べられている。この書の「内篇雑下」には、斉の景公が高台(楼閣)を建築するよう担当組織に催促したが、それが完成したあと、そこに上がる(登臨)ことはなかったと書かれている。宮廷に常時出入りしている大巫師柏常騫(はくじょうけん)はその理由を問いただした。

景公は言う。「昨夜大フクロウがわめき、騒ぎ立てた。わたしはこれが悪い兆しだと思い、台に登らなかったのだ」

柏常騫は言う。「わたくしめに法術を使わせ、それを取り除かせてください」

景公が儀式に必要なものについて聞こうとすると、柏常騫は言った。「新しい家を建て、白茅を置けばよろしいのです」。

 柏常騫が手に白茅を持ち、法術を行ったその夜、景公は大フクロウが叫び声をあげるのを聞いた。翌日人を派遣して調べさせると、宮殿の階段で大フクロウは死んでいた。

 1972年、山東省臨沂(りんぎ)銀雀山漢墓から出土した『晏子春秋』竹簡に「柏常騫梟(フクロウ)を祓う」の一節が記されていた。ただしその文と伝承された書に書かれているものとは内容が異なっていた。竹簡によれば、事があってのち、斉の景公は柏常騫に「鬼神に請うて梟(フクロウ)を殺せ」と命じている。柏常騫が白茅の神と通じる力を借りて、鬼神を招き、祟りをなす鬼怪を取り除いたことがうかがえる。柏常騫は周王室の巫史担当の職に就いていたが、のちに斉国に投降したという。彼の白茅祓梟法(白茅でフクロウを祓う法術)と『周礼』「男巫」の「茅で旁招する(神霊を招く)」とは一脈通じる。

 『感応経』と題された古書は明確に言う、「(柏)常騫が斉の景公にかわってフクロウの危害を除くために祀り、祈祷をおこなうと、フクロウは羽根をひろげ、地面に倒れて死んでいた」。

 清人恵士奇『礼説』によると、男巫の「チガヤで旁招する(神霊を招く)」と柏常騫がフクロウを祓ったこととは関係がある。つまり「古人は祓うのにチガヤを用いた」、そして「後世に医術は残り、巫術はなくなった。その術は人の間に伝わり、方士はこれを盗み、百鬼を使った。柏常騫はこれを会得していたに違いない」。さまざまな見解があるようだ。