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春秋時代、白茅から「茅旌(ぼうせい)」と呼ばれる旗を作る習慣があった。茅旌は一般の旗としての機能の他、辟邪開道[道を進むために、邪悪なものを駆除すること]という巫術的な意味があった。
楚国の軍隊の先鋒部隊はつねに茅草を旗にしたので、「前茅」と呼ばれた。
周代の上級大夫の葬送で、送殯隊[棺を送る葬列]の前を行く先導人は茅旌を掲げた。表面だけ見ると、茅旌によって前方から情報を伝達することができるので、後続の人や馬を指揮する特殊な手段ともいえるが、実際はそんなに単純なものではないようだ。
前597年、楚軍が鄭国の都城を攻めたとき、鄭の襄公(じょうこう)は胸をはだけ、腕をあらわにし、「左手に茅旌を持ち、右手に鸞刀(らんとう)を持ち」、衆を率いて投降した。
周武王が殷を滅ぼしたあと、「微子啓(びしけい)は上着を脱ぎ(肌をあらわにして)、後ろ手に縛り、片手に羊を牽き、もう一方の手に茅草を持ち、跪いて前へ進んだ」。これは古くからある投降の儀式である。胸や腕をあらわにして刀を持って羊を牽くのは、甘んじていやしい労働だってしますよという投降の意思表示である。手に茅旌をもつのも同じような意味を含んでいる。
後漢の何休は指摘する。茅旌はもともと宗廟祭祀に用いられたもので、これで神霊を迎え、引導した。そして祭者を指名し、保護した。また茅旌には通神辟邪(神霊に通じ、邪悪なものを避ける)の効能があると述べている。
投降者は手に茅旌を持ち、勝利者のために甘んじて先導役を務め、辟邪開路(邪を取り払い、道を切り開く)の役を担い、苦痛を覚えてもやめない。推測するに、楚軍の前茅と大夫葬礼中の茅旌は、どちらも辟除邪祟(邪悪なものを取り除く)の効能があり、あとから来る人たちが安全に通過することを保証する、という意味がある。
注目すべきは、清代の大学者、王引之や劉文淇らが秦代以前に茅を旌の風俗があったと認めていない点だ。彼らは茅旌の「茅」を「旄」の借字とみなしている。茅旌はすなわち旄旌であると。あるいは「茅」は「明」の借字であり、前茅は前明、茅旌は明旌であると。
これらの学者は言語や文字からのみ考え、秦代以前に巫術がさかんであったことや、白茅が辟邪霊物として用いられた文化的背景について十分考えず、神秘的なものを一般的として間違った結論に至っていたようだ。
周代、宗廟の祖先の位牌とその他祭祀場所の各自然神の位牌は固定された位置に並べられていた。自然神の神位(神の位牌)は「屏撮(へいさつ)」とも呼ばれた。この命名は、これらの神位が茅草で包まれ、覆われるからだ。白茅で神位を覆うのは、「鬼神、幽暗を尊ぶ」という特性と符合するだろう。また白茅の威力が増大し、神霊を保護する助けとなるだろう。