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巫師がつねに白茅を通神辟邪として用いるのは、白茅が桃茢と同様、巫師のステータスの象徴だからだ。荘子が生き生きとした挿話を語っている。
「小巫が大巫を見て(かなわないと思い)、(吉凶を占うため、大巫の)茅を一本抜いて捨てた。するとこのため、一生(小巫は大巫に)及ばない」。
茅草はすでに抜かれ(つまり小巫が茅草を持っている)巫術活動をはじめるとき、すぐれた大巫が突然出現する。小巫はとてもかなわないと嘆き、羞恥心もあって、茅草を捨てて逃げ出した。この種の巫師は、大巫が持つ大胆さに欠けるところがあり、一生器の小さい小巫のグループから抜け出せないだろう。
荘子の小巫に対する風刺には隠れた意味がある。つまり白茅を極度に蔑んでいるのである。茅草がどうやって駆邪できるのだろうか、と問うているのだ。手に白茅を持って声を張り上げるだけでは、巫師の能力が低いことしかわからない。とんだ笑い話である。
荘子のように白茅を蔑視する人はそんなに多くない。秦簡『日書』「詰篇」に関する記載を見ると、戦国時代の術士は白茅の駆邪の威力をまったく疑っていない。「詰篇」に言う、人がたくさんいる家の中で、原因不明の怪我をしたら、それは「粲迓(さんが)の鬼」のなせるわざと考えられる。黄土に白茅を加えて周囲にたらすと、鬼は逃亡する。
「詰篇」は白茅で包むものが必要だと強調する。たとえば子供が「不辜鬼」に命を奪われると、庚の日の日の出のとき、門の上で灰を吹き、そのあと鬼神を祀る。十日後に祭品を収集し、白茅で包んで野外に埋めると、災厄が除去される。
漢代はさまざまな巫術が混じりあい、しのぎを削った時代。白茅辟邪術も巫術のなかで発展してきた。馬王堆帛書『五十二病方』が記録する疝気治療の医方の最後に、「茅を県(懸)けるのはここであり、寿(祷)を塞ぐ」などの文字が見える。欠落部分が多く、医方の全容を知ることはできないが、当時の人が「懸茅」という言葉を使い、巫医が薬物治療をおこない、同時に白茅を掛け、駆除邪祟をおこなった。
漢武帝は方士欒大のでたらめな言葉や神奇な異術を信じ、「五利将軍」に封じた。のちには「天道将軍」の玉印を授与した。授与儀式は夜おこなわれた。武帝の使者は羽衣を着て、白茅の上に立った。欒大もまた羽衣を着て白茅の上に立ち、玉印を受けとった。あたかも白茅の承諾を得ているかのようだった、授与儀式は神聖なものだった。
葛洪『抱朴子』「登渉」は、つぎのような法術を伝えている。「山中でたまたま召喚した鬼怪に出くわしたとする。それが食べ物を要求しておとなしくならなかったら、白茅を投げつけたらいい。すると死んでしまう」。この種の撃鬼法は、白茅辟邪術のなかでも典型的とされるものである。葛洪は多くの術士からこれらを学び、受け継いできた。白茅撃鬼法の源は自身の伝統のなかにあったのである。
『周礼』には男巫の白茅招神法や柏常騫[はくじょうけん。諸子百家のひとり]の白茅禳梟法、葛洪の白茅撃鬼法は、手法に違いはあるものの、本質は同じである。ただ巫術を信仰する者は、白茅に神力があると信じ、白茅を用いた法術を自ら作り出せばいい。巫術が生産されるときには、すでにいろいろな形に分化しているだろう。複雑な条件が必要となるわけではない。転化が実現するには、時間が解決してくれるだろう。