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 三国時代になると、祓禊の礼は大きな変化が生まれた。

 第一の変化は、日時である。秦代以前、秦漢時代の禊礼は一般的に上巳に挙行された。上巳に対応するのは一、二、三日、あるいは十二日以前のどの日も可能性があった。曹魏以来、三月三日を祓禊の避とし、巳日に限らなくてもよくなった。魏晋以降は三月三日を上巳節とし、旧名を踏襲した。


 第二の変化は沐浴がしだいに「流觴曲水(りゅうしょうきょくすい)」(曲水の宴)に取って代わったことだ。「流觴曲水」あるいは「流杯曲水」は飲宴活動である。ぐるりと循環する水渠のほとりにみな車座に坐り、ゆるやかな「曲水」に酒杯を流す。この酒杯が流れてくると、そこにいた人が杯を取り、酒を飲む。そしてみな満足したところでやめる。


 流(酒杯流し)の俗について、晋の人たちは激しく論争した。晋の武帝は尚書の摯虞(しつぐ)に尋ねた。

「三月三日の曲水の飲酒(の宴)の由来は何なのかね」

 摯虞は答えた。

「後漢の章帝のとき、平原[現在の山東省平原県]の人徐肇(じょけい)の妻妾が三月三日に三人の女児を生みましたが、その月のうちにみな死んでしまいました。村人らはこれを怪事といぶかりました。そこでみな酒を持って東に流れる川のほとりに行って災厄を洗い流したのです。そして流水に酒杯を浮かべ、お酒を飲みました。曲水の俗はこれに始まったと言われております」

 晋の武帝は言った。

「その説の通りだとすると、曲水流觴はよくないことだな」

 尚書郎の束皙(そくせき)[216300]は武帝の言葉を聞いてあわてて言った。

「摯虞はその時代の人ではありませんから、曲水の意味はわかりませぬ。周公旦[周武帝の弟]が洛邑(洛陽)を建設していた頃、流水に酒を浮かべました。散逸した詩に、「羽觴[鳥の翼に見える酒器]、波のままに流れる」という句があります。秦の昭王は三月上巳に河辺に酒を置くと、金人が東方から現れ、<水心剣>を献上しました。そしておまえは西方の夏を征服することになるだろう、と予言しました。のちに秦国は覇を称え、昭王の故地に曲水を設立しました。前漢はこの制度を踏襲し、非常に栄えました」。

 晋の武帝はこの言葉を聞いて称賛し、束皙に黄金三十斤を与えた。同時に媚びへつらうことのできなかった摯虞は陽城の県令に左遷させられた。束皙が曲水流觴の俗の起源を西周に求めたのは滑稽というほかない。かえって摯虞の川浜で邪祟を祓除したという説のほうが事実に近かったと思われる。