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周代の女巫が執り行った「歳時に祓いをし、衅浴(体を清める)をする」が含む内容は広範囲にわたる。三月上巳に挙行する禊礼はそのうちの一項目にすぎない。「歳時……衅浴」は本来季節ごとにおこなう衅浴を用いて邪祟を祓除することを指す。
漢代末期の劉禎『魯都賦』に言う、「素秋二七(七月十四日)、天漢(銀河)は隅(夜空の南東隅)を指す。群衆が集まってきて祓いや禊をする。民はみな水を喜ぶ。赤黄色のとばりが渡口をふさぎ、赤いとばりが川洲を覆う。日が暮れて宴が終わり、馬車が衢(ちまた)に集まり、翼を広げた鶴のようにふさぎ、泳ぎ回る魚のように(馬車の)馬はうろたえて走り回る」
素秋二七とは七月十四日のこと。劉禎は漢代の一部の地域では七月十四日に祓禊を行なっていたということである。その規模は三月上巳節にははるかに及ばなかった。
南北朝の時期の女巫は川を渡るときの辟邪法(魔除け)を持っていた。伝説によると、梁武帝の皇后郗(き)氏は誕生したとき、「室内が赤く照り輝き、器などがことごとく明るくなり、家人はみなこれを怪しんだ」。女巫はこの女(郗氏)が尋常でなく光に包まれるのを認識し、母の安全をも損ねようとしたので、浜辺でこれを祓い、除いた。
伝説によれば、魏の大将竇泰(とうたい)の出征も同じく非凡だった。彼の母親は夢の中で風が吹き荒れ、雷鳴がとどろくなか、庭に走って出た。そのとき稲光を見た瞬間激しい雨を浴びて濡れそぼった。目覚めたあと、身ごもっていることに気がついた。しかし出産の時期になっても生まれなかったので、母親は女巫にお祓いをしてもらうよう頼んだ。すると女巫は言った。
「川を渡るとき裙(すそ)が少し濡れれば、かならず簡単に子供が生まれる」
清の人恵士奇のこの伝説と『周礼』「女巫」のいわゆる「歳時に祓除し、衅浴(きんよく)する」との関連から、「度河湔裙(川を渡って裙を濡らす)」は古代の女巫が代々伝えていた法術であったことがわかる。
興味深いのは、「度河湔裙(川を渡って裙を濡らす)」法術が、伝統的な祭日の習俗から転じたものであることだ。隋朝の前後、正月に集まって酒を飲み、河を歩いて渡る習俗があった。男女を問わず下衣(ズボンなど)を洗い清め、同時に河辺で死者を弔った。これは「度厄」と呼ばれた。これ以来、人々は正月の最後の日に「臨河解除」(河辺でよごれを取り除くこと)をおこなった。また女性だけが裙裳(はかまなど)を洗い清めた。
巫術が発展し、人がみな行えるようになると、決まった日に人はそれを実施するようになる。巫術の垣根から流出してしまったのである。巫術の存在の基盤は神秘的であることだ。大衆はそれを経験し、代々伝えることなどできないはずである。巫術がいったん外に出てしまい、巫師だけが知っている秘密が漏れて大衆が知るものになってしまえば、大損害を受けることになる。中身を変えざるをえなくなる。