(2)
晋代初め以来、ヨモギ(艾蒿)は中国の伝統的な祭日である端午節と密接な関係があると考えられてきた。艾人(ヨモギ人形)を掛け、艾虎(ヨモギで作った虎)を載せ、ヨモギの葉を挿すなど、ヨモギと関連する活動は端午節でも重要なものとされた。晋の人は、五月五日、ヨモギやニンニクで人形を作り、門の上に置く習慣があった。そうすれば瘟疫を避け、駆逐できると考えられたのである。
このヨモギ人形と晋代以前の辟邪桃梗(魔除けの桃人形)とは共通点が多い。『荊楚歳時記』には、南朝の人も同様に五月五日に「艾(ヨモギ)を採って人となし(人形を作って)門の上に掛ける。よって毒気を祓う」と記している。
五世紀のちの北宋の時代、状況はそれほど変わっていなかった。五月に入ると汴梁(べんりょう)市民は桃柳[桃枝と柳枝。駆邪避凶を象徴]、葵花[家の中に飾る。家庭円満の象徴]、蒲葉[がまの葉と菖蒲をいっしょに門口に挿す。平安と健康の祈り]、艾蒿(よもぎ)[駆邪避凶を象徴]などを買いそろえるのに忙しかった。端午の日、家という家は、門前に艾蒿を置き、「門にヨモギ人形を釘付けにした」。
いつからそうなったか不明だが、人々はヨモギ人形といっしょに道教祖師張陵[張道陵(34―156)。五斗米道、あるいは天師道を創設、張天師と呼ばれた]の像を置いた。
宋代の端午節で、「泥を捏ねて張天師像の元を作り、ヨモギの頭とニンニクの拳を足した。それを門の上に置いた」。これはよく見られる光景だ。
これだけの霊物が集まれば大きな威力を発揮するだろうが、そこへさらに「横眉怒目」の張天師がヨモギの虎に乗って登場する。当時の詩にも詠まれる。「張天師、生け捕りにしたヨモギの虎に乗ってにらみをきかす。さすらう邪悪な閑神も野鬼も、驚かせば遠くへ逃げてしまうだろう。遠方の恐れを知らない鬼たちだけが貧乏人の家庭にも入ってくるだろう」
宋代の女性は五月五日にヨモギで作った虎の形の頭飾を着けるのが好きだった。この虎形頭飾には、直接ヨモギから作ったものもあれば、五色の絹布を切り取って合わせて作った虎形の上にヨモギの葉を貼り付けたものもあった。頭飾のヨモギ虎のなかには黒豆ほどの大きさのものもあった。精巧な工芸品を作ることができたのである。
ある地区では端午節に艾葉泡酒(あいようほうしゅ)[ヨモギの葉と白酒から作る発泡酒。薬効が大きく、香りがよい]を飲む習慣があった。『歳時広記』巻二十一には「洛陽の人の家では端午(の日)に術羹[しゅこう。白術(オオバナオケラ)や蒼術(ホソバオケラ)のスープ]、艾酒を作り、色とりどりの花飾りを鬢(びん)に挿し、辟邪(魔除け)の扇と櫛(くし)を賜う」という引用が一例である。これと元旦に桃湯、お屠蘇を飲むはよく似ている。それらは巫術的性質を持ち、一般的な健康のための飲み物とは同じではない。
ヨモギから辟邪(魔除け)霊物が作られるが、ヨモギの医療効果に関していえば誇大気味である。ヨモギの辟邪法(魔除け法)によるパワーは、はじめ、それほど強烈ではない。五月五日のヨモギを挿すといった活動は巫師から遠くなり、普通の民衆との距離が近くなった。それ以来、次第にヨモギを挿して邪悪を避ける巫術的意味合いは薄れていくばかりだった。
宋代の端午節において下女が簪(かんざし)に載せるヨモギの葉のかわりに織物 コウゾ、ミツマタを切って作ったものを象徴的なヨモギの葉とみなすようになった。ここにおいてヨモギの葉は純粋な装飾となった。