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 ヨモギと比べても、茱萸(しゅゆ。ぐみのこと)が辟邪霊物として用いられてきた歴史ははるかに長い。『神農本草経』に言う。「夏至の日、ブタの頭、山茱萸、牡蠣(かき)と烏喙(ウカイ。附子のこと)を用いて四肢や二十三骨格を治す」。

 茱萸の薬用価値が高いとして、多くの医家の注目を集めてきた。茱萸の実には濃い香りがあった。

 晋の人孫楚は『茱萸賦』の中で言う。「細かい枝の中に紫色の房がある。赤い実が成っていて、激烈な匂いがつんとくる。神農の本草に照らして、人々の発疹の病を治療する」。この激烈なつんとくる匂いとは、茱萸の実(グミ)の鼻に刺すような強い香りのことである。古代の民間では、たとえばニンニクのような刺激のある植物が、つねに鬼怪に対する武器として用いられてきた。茱萸は早くから辟邪霊物とみなされてきたが、それは薬用として効能があっただけでなく、その香りが激烈であったからである。


 漢代の人は茱萸の辟邪(魔除け)の威力を信じていた。『淮南万畢術』は「井戸の上に

茱萸があり、その葉が井戸に落ちると、水を飲んだ人は瘟疫にかかることはない。その種が家に垂れ下がると、鬼魅はここを避ける」と述べる。

 古書『五行志』に言う。「建物の東に白楊、すると寿命が延び、禍や害が取り除かれる」。


 ヨモギと端午節は密接な関係がある。茱萸は古代重陽節に欠かせない霊物である。前漢の宮廷の貴族は九月九日に「茱萸を身体に着け、蓬餌[ヨモギケーキ]を食べ、菊花酒を飲む」習慣があった。皇帝はこの日百官に向かって邪気を避けるようにと茱萸を下賜した。

 南北朝の頃、伝説になっていたのだが、重陽節に茱萸を着ける習慣は後漢末期の著名な術士、費長房と関係があるようだ。

 梁の人呉均は『続斉諧記』に言う。汝南郡の桓景は費長房のもとで法術を学んでいた。あるとき費長房は桓景に語った。

「九月九日、おまえの家に災厄がやってくるでしょう。(それに備えて)家人に袋を縫ってもらいなさい。そしてその袋を茱萸で満たすのです。茱萸袋は腕に縛りつけてください。九日になったら山に登って菊花酒を飲んでください。そうしたら災禍は消えてなくなるでしょう」

 桓景は師に言われたとおり準備万端整え、九月九日に一家総出で山に登った。晩になって家に戻ると、飼育していた鶏、犬、牛、羊、みな病死していた。費長房は解説する。

「まさに家畜が人間の身代わりになって死んだのです」

 このとき以来、各地で、九月九日に高い山に登って酒を飲み、女性は茱萸を身につけるという習俗がまねされるようになったという。呉均によれば、茱萸辟邪法が費長房から始まったという主張をするのは小説家だけだという[小説は現代の小説とは異なり、志怪小説などの短い物語のこと]。ただし二つの点では事実であったと確信が持てる。

 九月九日に茱萸を身につける習俗の存在が確認できるもっとも遅い時期は後漢時代である。茱萸袋を身につけるとなると、それは巫師が邪気を制御しようと法術を用いたということである。巫師を経て、そこから民間に拡散した。