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<衅厩蔵>

 『周礼』「圉(ぎょ)師」に言う、新しく馬小屋が完成したあとおこなわれる衅礼を主持するのは、養馬担当の圉師である[圉は馬養を意味する]。『周礼』はまた言う、契約を管轄する官員である「司約」は、契約を結んだ両者の間にいさかいが生じたとき、契約原文の照合が必要となる。契約文保管室の扉を開けるとき、まず鶏の血を扉に塗りこまなければならない。


<衅軍器>

 軍器とは旗、鼓、甲兵(鎧兜や兵器)など軍事用品を指す。周代、大規模遠征に行く前に、国君のもと最高軍事長官である大司馬は自ら衅社主と衅軍器の儀式に参加しなければならなかった。春秋時代、衅鼓はきわめて一般的だった。「師の耳目、旗鼓にあり」[軍隊で号令を発し、指令を出すのは実際旗と太鼓だった]。戦鼓は戦いに臨んで役立つのではなく、戦果を得るわけではなかった。しかし当時の人は、戦争俘虜の血液を用いて軍鼓にこすりつけるものとして、衅鼓を格別に重視した。

 前537年、呉と楚が交戦し、呉人は楚軍を撃破した。呉君は弟の蹶由(けつゆ)を楚軍のもとに派遣したが、「師」[酒食や財物で慰労すること]をさせることで楚人を辱めた。傷ついて苛立った楚の霊王は蹶由を殺して衅鼓としようとした[蹶由の血を太鼓にこすりつけようとした]。しかし蹶由はその多弁の才能によって殺されずにすんだ。

 秦国大将孟明は晋国の俘虜となったが、放還(国に戻された)された。晋国将領知罃(ちよう)は楚の俘虜となったが、のちに釈放された。彼らは自分が衅鼓にされなかったことを感謝している。衅鼓と俘虜が殺されることとは同義語だったのである。

 前209年、劉邦は沛県で反秦の群衆を集めた。最初にやったことは、「沛庭で衅鼓旗のもと、黄帝を祀り、蚩尤を祭ることだった」。黄帝を祀るのは世の人に向かって自分が華夏族の代表であることを宣言し、蚩尤を祭るのは戦神の助けを求めることであり、衅鼓旗は血をこすりつけることで、重要な軍器を手にし、屈強な、敵を震え上がらせる神力を得たことを示している。