第2章 12 青牛と髯奴(ひげやっこ) 

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 魏晋南北朝の頃、巫術を信仰する物たちは、青牛やひげもじゃの下僕に強い興味を持っていた。彼らは青牛とひげの奴(やっこ)を特殊な霊的な組み合わせと考えていた。この組み合わせが鬼を制御し、邪を避ける神秘的なパワーを持っていると信じたのである。青牛とひげやっこを持っていれば、魑魅魍魎は門から入ってきて祟りを起こすということはなかった。ひげやっこに青牛を牽かせて道を開けば、魑魅魍魎は自ら退避三舎(争いを避けること)した。

 晋代の神怪小説のなかで、小説家は鬼怪の口を通じて当時の人の青牛ひげやっこの見方を語っている。『雑語』に言う、宗泰が青州刺史を担当していた期間、『無鬼論』を著し、有鬼説に反駁した。正確で緻密な考えを持ち、屈することなく、淫祀を禁じ、風俗習慣を変えないように命じた。その影響は近隣の各州にまで及んだ。

 のちに鬼が書生に変じて宗泰を訪ねた。ふたりは人情や物の道理について心置きなく話し合い、意気投合した。しだいに話題は鬼神のことに移っていった。書生は鬼が存在することを証明しようとして、しだいに言葉がとげとげしくなった。宗泰は言い返すことがだんだんできなくなった。このとき書生は立ち上がって言った。「閣下は青州におられる頃、あまたの祭祀儀礼をおやめになった。われらは二十数年もの間、食べることができなかった。以前あなたは青牛やひげやっこを有しておられた。われらはあなたに抵抗することができなかった。しかしいま青牛は死に、ひげやっこはどこかへ逃げ去った。あなたに本当のことを教えるいい機会がやってきたのだ」。そう話すと声も姿も消えてしまった。翌日、病気にかかったわけでもないのに宗泰は死んでしまった。

 陶淵明選『続捜神記』(旧題)には青牛と髯奴(ひげやっこ)の威力が描かれている。この書の中で、西晋安豊候王戎(竹林七賢の一人)が若かった頃、友人の家族の葬送に参列した。葬送儀礼がまだ始まらないので、彼はしばらく馬車の中で休んでいた。このときぼんやり空を見ていると、異物があることに気づいた。はじめは鳥が飛んでいるのだと思ったが、それはしだいに大きくなり、ついに赤い馬車となった。馬車の中には頭巾をかぶり、赤い衣を着て、手には鋭い斧を持った人がいた。この人はいきなり王戎の車の中に入ってくると言った。

「王君は清らかで爽快であり、万物を洞察する能力を持っている。ひとかどの人物と見える。いまあなたに約束いたそう。けっして忘れるな。近親でもなければ、葬送にあわてて参列することはない。できるならば青い牛車に乗り、もじゃもじゃのひげの下僕に車を御させるがいい。さっそうと白馬に乗るのもいい。それらは災難を避けてくれるからな」。

 家族が遺体を入棺すると、待っていた弔問客がどやどやと門から入ってきた。すると赤い衣を着た鬼もまた人込みにまぎれて庭に入り、手に鋭い斧を持ったまま棺の上に立った。ある人が棺の前で死者と決別したとき、赤い衣を着た鬼は斧でその額をかち割った。その人は声をあげ、その場に倒れた。群衆が入り乱れているとき、鬼は棺の上でにやつきながら王戎を見ていた。「おれはなんだってできるんだぜ」と言いたげだった。

 これらの怪異小説は一種の共同思想を表現している。すなわち巫術活動においては、青牛と髯奴(ひげやっこ)は不可分なるコンビである。それらはいっしょになることで、鬼を駆除し、邪を避けることができるのである。牛と奴を組み合わせたのは、晋人の独創かもしれない。ともかく青牛と髯奴(ひげやっこ)が巫術の霊的なものおと考えられたのは晋代が最初である。秦や漢、あるいはそれ以前に、神秘的な意識は形成されていた。ただまだ牛と奴(やっこ)は結合されていなかったのである。



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