(2)

 晋代以前、神化した青牛伝説が社会に流布していた。こうした神話伝説によって青牛の制鬼法術が形成され、空気と土壌に合致するようになった。「青牛制鬼法術」の伝播によって反対に青牛崇拝の発展に拍車がかかった。関連した神話は大衆が受け売れるのをたやすくした。

 秦漢から六朝の頃、「青牛制鬼法術」と密接な関係にある以下の少なくとも四つの神話伝説があった。


<蚩尤神話> 

 蚩尤(しゆう)は兵器の発明者とみなされる。伝承によると蚩尤には八十一人の兄弟がいて、みな「獣身人語(姿は獣だが、言葉を話す)で、銅頭鉄額(頭は銅でできていて、額は鉄でできていた)、沙石子(砂や石)を食べた」。尋常でなく凶暴だった。蚩尤は黄帝も敗れたとはいえ、漢代に至るまで民間では戦神として祭られた。神話中の蚩尤の姿は「人身牛蹄、四目六手」(体は人間だが足は牛の蹄、目は四つ、手は六本あった)だった。また「秦漢の民間伝説によると、蚩尤の耳や鬢(びん)は剣、戟のようにとがり、頭には角が生えていた。軒轅(黄帝)の軍隊と闘うときには、角で人を突き、だれも抵抗することができなかった」(『述異記』)。このさまを見ると、まるで牛である。

 梁朝の頃、「冀州に蚩尤戯という民間遊戯があった。その民、二二三三と並んで、牛角をかぶり、角を突き合わせた」。「太原の村落の間で蚩尤神を祭ったが、牛頭は用いなかった」。

 牛角をかぶって角を突き合わせる遊戯を蚩尤戯と呼んでいる。蚩尤は牛神の化身と明らかにしている。蚩尤を祭るのに牛頭は無用だという。なぜなら蚩尤自体が神牛だからである。漢代に石に描かれた蚩尤の像を見ると、牛首獣身である。

 伝説によれば黄帝が蚩尤を破ったあと、天下は不安定になり、黄帝は混乱をコントロールできなくなり、「蚩尤の姿を像に描き、その権威を天下に示すしかなかった」。「世の人は、みな蚩尤は死んでいないといい、八方すべての国が帰順した」。この伝説が意味するのは、蚩尤像を掛ける習俗はかなり早くからあったということである。蚩尤は牛頭獣身であり、蚩尤像を掛けるのと、青牛図を掛けるのとでは大同小異である。梁朝の人が青牛図を使って魑魅魍魎を「辟厭」する根源は、たしかにここにある。


<青牛と水神> 

 漢代の伝説によると、秦昭王のとき蜀郡守李氷は一頭の青牛に変化し、江水の神の化身である別の青牛と江水の岸で対決した。最後に李氷は衆人の助けもあって江神を殺すことができた。これよりのち江水が憂いとなることはなかった。

 後代の小説には神化した青牛の故事が少なくなかった。たとえば唐代の余知古の『渚宮旧事』の物語では、東晋の桓玄はひとりの老翁から奇異な青牛をもらった。のちに「牛に水を飲ませるために車を停めたところ、牛が水に入ったまま出てこなかった」。桓玄は人を水辺にやって待たせたが、一日たっても青牛のゆくえはわからず、「当時は神の物(御業)とされた」。

 南唐徐鉉の『稽神録』に言う、「京口の人が夜、江上に出ると、石公山に二頭の青牛がいるのが見えた。腹と口は赤く、水辺で戯れている。白衣を着た三丈(9m)の背の高さの老翁が鞭を持ってそのかたわらに立っている。しばらく見ていると、翁は振り返ったかと思うと、鞭打って二頭の牛を水に入れ、翁はその上を飛び跳ねている。飛ぶ距離は次第に伸びていき、ついには一足飛びに石公山の山頂に到達したかと思うと、姿が見えなくなった。青牛が神聖化されているのはたしかである。ただあとで出てきた奇妙な話と李氷の治水の神話はおなじものといえるだろう。


<青牛と樹精> 

 伝説によれば春秋時代の「秦文公のとき、雍南山に大梓樹(キササゲ)があった。文公がこれを伐ろうとすると、たちまち暴風雨が起こり、樹は絶えず生まれた」。のちに秦文公は秘術を会得し、幹のまわりに赤い糸をぐるぐるとまくと、髪を振り乱して伐りかかり、ようやく大梓樹を伐り倒すことができた。するとそこから一頭の青牛が走り出て、豊水に飛び込んだ。しばらくすると青牛は豊水からまた走って出てきた。秦文公は騎兵をやってそれを捕えたが、かえって青牛に追い散らされた。馬から落とされたひとりの騎士が髪を乱しながらもう一度馬に乗ると、青牛はその姿を見て恐怖を感じ、水の中に逃げ込み、二度と姿を現さなかった。武都郡に人々は怒特祠を建立し、大梓牛神を祀った。帝王からこの髪を振り乱した騎士は先駆者とみなされ、髦頭と呼ばれた。[髦は幼児の前髪が額に垂れた状態のことを言う]

 また伝説に言う、「漢桓帝のとき、河の上で遊んでいると、突然青牛が水の中から現れ、桓帝のほうへ向かってきたので、みなが驚いて逃げた。太尉の何公が(……)右手に斧を持ち、それで牛の頭を斬って殺した。この青牛は万年木精である」。この伝説の青牛も河水と関係があるが、木精と言われているところが違う。こののち、青牛の木精は伝説の類型の一つとなった。

 『崇高記』に言う、「(崇)山に大松があった。千歳ともいう。その精は青牛である」。

 『述異記』に言う、「千年木精、青牛となる」。

 『玄中記』に言う、「千歳樹精、青羊となる。万歳木精、青牛となる。多くは出て人間のなかで遊ぶ」。

 犬禳法術のところで紹介したように、張華が燕昭王の墓前の千年木柱に火をつけて妖魔を照らしたという故事がある。青牛はすでに木精の化身であり、人々は千年木柱と同様に青牛を辟鬼厭邪のために用いるようになっていた。


<老子と封君達> 

 老子は周王朝の史官である。漢代に至って老子は神と奉られ、道教徒は老子を神格化して太上老君と呼んだ。伝説の中では老子は青牛に乗っている。

 劉向『列仙伝』に言う、「老子が西遊したとき、関令の尹喜は遠くの関所に紫の気が浮かんでいるのが見えた。老子が青牛に乗って関所を過ぎようとしていたのである」。神仙が青牛に乗るさまは、道家の神話伝説のパターンである。

 葛洪『神仙伝』が羅列する神仙の最後のひとりが後漢の封君達である。封氏は「黄精を服すること五十余年、鳥鼠山に入り、水銀を精錬して服す。百余歳にして郷里を往来する。これを見たのは三十人ほど。つねに青牛に乗り、死にそうな病気の人がいると聞くと駆けつけて、薬を与えて治した。どんな病をも癒すことができた。姓が何であるか語らず、青牛に乗っていることは知られていたので、青牛道士と呼ばれた」。道士は鬼怪に対処するのを専門年、道士のなかには成仙者となる者もあった。彼らは青牛に乗ったので、迷信を信じる者はこの現象や観念を根拠に青牛は辟邪霊物(邪悪を取り除く霊的なもの)であると結論づけたのである。