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 人はもっぱら青牛の身に兵神、水精、木精を見いだすので、あるいは道士が青牛を崇拝するので、青牛が巫術の実践に霊物として運用されるのは必然と言えるだろう。実際、青牛と髯奴の組み合わせが用いられた六朝時代、人は単独で青牛を利用する機会を放棄したわけではない。

 梁朝の時代、青牛画像を用いた厭勝鬼魅法術があった。上述の劉孝威『辟厭青牛画賛』もその一つである。唐代にも「画青牛障」の習俗があった。張守節はこの習俗と秦文公の神話は関係があると考えていた。

古代の医術家から見ると、青牛によって夢魘(むえん)、死(そつし 突然死)を治すのは、奇妙な治療法だった。葛洪によると、夢魘から醒めない症状に対する処方はつぎのようなものだった。「馬のような牛によって悪夢に臨み、二百息。青牛であればさらぬよい」。

北斉の学者顔之推はこの方法について言及している。顔氏の小説『還冤志』に書く、晋富陽県令王范は誤って都督孫元弼を殺してしまった。しばらくすると孫元弼の鬼魂が復讐するためにやってきた。ある夜、王范が寝入ったところで「突然悪夢を見はじめ(うなされ)、連呼しても目を覚まさなかった。家人が青牛を范のところまで連れてきて、桃木の人形やアシの縄を加えた。少しよくなり、小康状態を保ったが、十日余りで死んでしまった」。青牛を見ることで悪夢から救う法術が当時相当流行していたことがうかがえる。

 唐代の医術家はこのような法術とともに発展した。張思邈『千金方』巻二十五には猝死の医方(治療法)が述べられている。「牛を牽いて鼻の上に臨み二百息。牛が舐めればかならず(い)える。牛が舐めたがらなければ、塩を病人の顔に塗る。そうすれば牛は舐める」。

 また悪夢を見ても覚めないときの処方は以下の通り。「慎重に火を灯せ。手を動かさないように。牛を顔のところまで牽け。そうすれば目が覚める」。こういった医方は青牛辟厭法術の影響を受けている。