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 名前を用いて仇敵を攻撃する、あるいは子供をおびえさせるのは、古代ではごく普通のことだった。古代に流行した偶像祝詛術は、仇を象徴する木偶や画像に仇の名を書き、それに対して呪詛するというものである。

 顔之推『還冤志』は、ある残忍な心を持った女性が、夫の前妻の子「鉄臼」に対するために、自分が生んだ子に「鉄杵」という名を付けたという物語を描いて射る。

古代民間では、子供が泣き止まないときにやめさせるため、凶悪で威圧的な名を付けることがあった。まちがいなく、効果は絶大だった。

 宋人周密『癸辛雑識』「呼名怖鬼」に言う、「劉黒、顔は青黒く、胡蛮に似て、人はこれを畏れる。子供が泣くとき、「劉胡が来るよ!」と言えば泣き止んだ。楊大眼、威張りちらして、声も恐ろしかった。淮泗荊沔の間で子供がなくとき、「楊大眼が見てるよ!」と言えば泣き止んだ。将軍麻秋の威勢ある名は轟いていた。子供が泣くやいなや「麻秋が来たぞ!」と叫ぶと泣き止んだ。檀道済の雄名は大いに轟き、魏はこれを畏れた。鬼を祓うのにそれを用いた。江南人畏桓康はその名が子供を恐がらせた。寺の中にその恐ろしい姿を見せようと、瘧病の者は床や壁にその姿(画像)を貼った。するとたちどころに病は癒えた」。

 名を呼ぶと泣き止んだのは、最初は偶発的なものだったかもしれない。人はそれを模倣するようになり、名前と霊魂が密接な関係にあるという観念が解釈に加わっていった。そして名を呼ぶと泣き止むのは遊び半分ではなくなり、巫術活動になっていった。


 名は神秘的だが、こと鬼神に関することになると、より神秘を感じるものである。二千年以上にわたって名諱(いみな)制度が続いてきたが、早くには、鬼神の名を避けることから始まっていた。周代には「神のことを忌む」礼俗があったが、この場合の神とは、死んだ祖先のことを指していた。招魂、祭祀などの特殊な場合を除き、死人の名は、とくにそれが祖先の名であるなら、やみくもに口にしてはいけなかった。もし死人の名と世間の何かが同じ名だったら、その物は廃棄され、その名称は換えられ、祖先はその名で満足しなければならなかった。晋僖公がついた「司徒」、宋武公がついた「司空」という官位は彼らの死後廃絶されてしまった。宋国は司徒をあらため司城とした。

 魯献公は名を具、魯武公は名を敖(きょう)といった。敖も具も、魯国の山の名だった。献、武の死後、当地の人は郷名で呼ぶのを改め、山の名で呼んだ。人の死後、同じ名の事物の名称を変える必要があることを考慮すると、不必要な煩わしいことを引き起こすことになり、春秋時代の人が強調したように、名前選びは慎重になる必要がある。国名や官名、山や川の名、隠疾(性病など隠された病気)の名、家畜の名、器幣(礼器玉帛)の名からは取らないようにしなければならない。

 中国の周代だけでなく、世界中の多くの原始民族が「以諱事神」(諱でもって神につかえる)の習慣を持っている。そういったところでは自ら名前を言うことができず、他人の名を言うこともできず、とりわけ死者の名を言うことができない。はなはだしいのは、死者の名が日常語に含まれる場合、そういったことばが廃棄されることになる。名を口にするということは、その人本人に言及したということであり、その名の存在に触れたということである。これは彼を殺しうるということである。彼に対し暴力をふるうことができるのであり、現実の彼を脅迫することができるということだ。これはたいへん危険なことである。


 「以諱事神」は平時に鬼名を呼ばないよう要求する。それは鬼名の迷信的側面を反映しているにすぎないが。古代の巫医道士は「以諱事神」の伝統に手足を縛られることはなかった。鬼名と鬼神の関係には積極的な理解があった。彼らにとって、悪鬼と悪虫の名を呼ぶのは、親族の中の名が含まれる悪鬼と悪虫を列挙するということだった。それは悪鬼と悪虫に脅しをかけることができるということだ。

 この特殊な制鬼法(鬼を制御する法)は二つの意味を持つ。一、鬼名によって鬼魂をコントロールすることができる。これは人名によって人の魂をコントロールするのと同様である。二、高みから見下ろす態度で鬼怪に対し、威嚇する。暗がりに隠れて、したいことが何でもできる。あなたの姓名を私はあきらかにすることができる。あなたの親族の状況、家族の内幕をすべて知ることができる。もっとも悪いのは、懲罰から逃げられると妄想することだ。