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呪文を唱えるとき、鬼の名及びその親族の名を列挙するが、それは呼名駆鬼法術のうちの煩瑣なものにすぎない。伝統巫術のなかにはもっとシンプルな呼名法もあるのである。この種の法術を思いつく人は、くどくどしく鬼怪に向かってその(鬼の)父母兄弟に就いて話す必要がないことを承知している。そして「ぶった切ってやるぞ」みたいな脅しの文句もいらないのである。ただこの種の鬼怪に就いてよく知り、名前を記憶し、その名を叫べば、鬼怪はすごすごと退散するだろう。
晋の葛洪はこの簡単な制鬼術を重視した。彼は山中の精怪の名前を詳しく紹介している。その目的は入山修行者に自衛の方法を提供するためである。葛洪の『抱朴子』「登渉」に言う。山精には4種の形状があり、5種の名前がある。子供のようで独脚(一本足)、反対に(背中の方向に)歩き、好んで人を害し、夜間に大きな声で笑う。その名を「蚑(き)」、またの名を「熱内」という。
「知ってこれ(名)を呼ぶと、人に危害を加えることはない」「山精あり。太鼓のように赤く、一足(一本足)である。その名を暉(き)と呼ぶ。また人のように見えるが、身長が九尺あり、裘(かわごろも)を着て、笠をかぶる。これを金累と呼ぶ。また竜のように見え、体が五色で、赤い角持つ。これを飛飛と呼ぶ。これらは名前を呼ばれると、危害を加えることはない」。
大きな枠組みの山精のほか、特殊な山精も数が多い。たとえば「山中に話すことのできる大樹があった。また樹以外にも話すことのできるものもあった。その精は雲陽といった。これを呼べば吉(いい前兆)だった」。「大自然の中に小役人を見た。これは四徼(しきょう)という。名を呼べば吉である」。「山中で頭巾をかぶった大蛇を見る。名を昇卿という。これを呼べばすなわち吉である」。
葛氏が言うには、精怪はふだん見る動植物やその他、モノが変化したものが多い。彼らは決まった日時に出現する。喜んで自らを役人、神仙、あるいはその類の人物と呼ぶ。たとえばつぎのように。
「山中で、寅の日、虞吏(ぐり)[山林の管理人のこと]と称する役人がいる。じつは虎である。また当路君と称する者がいる。じつは狼である。令長と称する者がいる。タヌキである。卯日に丈人と称する者がいる。ウサギである。東王父と称する者がいる。シフゾウである。西王母と称する者がいる。鹿である。辰日に雨師と称する者がいる。竜である。河伯と称する者がいる。魚である。無腸公子と称する者がいる。カニである。巳日に寡人と称する者がいる。社中の蛇である。時君と称する者がいる。亀である。午日に三公と称する者がいる。馬である。仙人と称する者がいる。老樹である。未日に主人と称する者がいる。ヒツジである。吏と称する者がいる。獐(ノロ)である。申日に人君と称する者がいる。猴(サル)である。九卿と称する者がいる。猿(さる)である。酉日に将軍と称する者がいる。ニワトリである。捕賊と称する者がいる。雉(きじ)である。戌日に人姓字と称する者がいる。犬である。成陽公と称する者がいる。キツネである。亥日に神君と称する者がいる。ブタである[十二支の亥はイノシシでなく、ブタ]。婦人と称する者は金玉である。子日に社君と称する者はネズミである。神人と称する者は伏翼である。丑日に書生と称する者は牛である」
葛洪によると、こういった精怪に対処するもっとも簡単な方法は、その特殊な鬼名を呼ばないことである。「その名(鬼名でないそれ自体の名)を知っていれば、これを呼ぶ。すると危害を加えることができなくなる」。
たとえば、寅の日に山中で山林の管理人と称する人に遭遇する。あなたはただ(虞吏という鬼名でなく)一言「虎!」と叫べばいい。それはたちどころに虎精に変ずる。もはや人に危害を加えることはない。