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 本章7節で引用した、燕人李季が白日に鬼が蘭湯を浴びるのを見たという韓非子が述べた故事がある。民間にはこの故事の別バージョンがある。韓非子はさも楽しそうにいくつかのパターンを示している。

 たとえば、李季は犬の矢(糞尿)を浴びた。あるいは李季は五牲の矢を浴びた。あるいは蘭湯を浴びた。

 この三つの異なるパターンは、邪悪なるものを駆除するために、犬矢、五牲の矢、蘭湯を用いているが、当時はそれらが一般的な方法だったということである。五牲とは牛、羊、犬、豕(し ブタ、イノシシ)、鶏のこと。李季故事の五牲の矢とは、五牲の糞を混合して作った糞汁のことだ。法術をおこなう者は、この種のごった煮タイプのほうが、「犬矢を浴びる」よりも即座の効果が得られると認識している。糞汁駆邪法は睡虎血秦簡にも反映している。『日書』「詰篇」に記される、病気になって「鬼と交わった」女が「自ら犬矢を浴びた」話などがいい例だろう。


 『日書』が明らかにしているように、当時の牲矢駆邪術の形式はさまざまあり、  淋澆糞湯(りんぎょうふんたん)すなわち「糞汁をそそいで作ったもの」だけとは限らない。「詰篇」に言う、大神がいるところ、簡単に通過することはできない。なぜなら大神はつねに行く人を傷つけるから。もしこの地を通るなら、まず身を守る武器として、犬矢の弾丸を作らなければならない。たまたま大神に会ったなら、犬矢でこれに弾を投げ、撃退せよ。

 この書はまた言う、縁もゆかりもない鬼が人の居室の周囲で隙を窺っている。なんとしてでもこれを駆逐せねばならないが、うまくいかない。これは先祖の鬼がふらついているからである。犬矢で弾を投げて撃退し、二度と近づかないようにしなければならない。以上の二例は両方とも犬矢を投擲し、鬼神を駆逐する方法である。

 ほかにも燔焼(はんしょう)牲矢がある。こんがりと焼くことで出る濃密な匂いによって鬼魅を駆逐するのである。たとえばかまどで理由なく食べ物を十分焼くことができないとき、「陽鬼」がかまどの中の火気を盗んでいると考えられる。室内でブタ矢を焚くことによって、かまどの使用継続が可能になる。

家の中の人全員が、理由もなく口の中がよだれでいっぱいになることがある。これは家の中の「愛母」鬼が怪をなすのである。この鬼は大きさが杵ほどで、体には赤い斑点が浮き出ていて、鬼がいるところは普通と何かが違った。たとえば水があるのに乾燥していたり、乾燥しているのに水浸しだったりした。家の中の地面を三尺ほど掘って、ブタの矢をこんがり焼くと、鬼を駆逐することができた。


韓兪の名作『進学解』に言う、「玉札丹砂、赤箭青芝、牛溲馬勃(ぎゅうしゅばぼつ)、敗鼓之皮、倶収并蓄、待用無遺者、医師之良也」。文中の牛溲は牛の尿を指すという(一説には車前草)。韓兪は例を挙げて医師の兼収并蓄(異なるものをすべて受け入れること)を説明している。実際古代の医術家は汚濊物を使用していたが、それは牛の尿だけではなかった。五牲の矢は六蓄の糞尿を入れた薬のリストに含まれていた。この種の医術は秦代以前から明清の時代まで衰えることはなかった。不潔な感じのする字面を避けるため、医術家は家畜の糞便に特殊な名前をつけていた。たとえば「馬の尿を通、牛の尿を洞、ブタの尿を零」といった具合である。医術家は牛洞、馬通を用いて病を治した。それらはすべて巫術と関係があるというわけではなかった。医術の処方が効くこともあった。偶然こうした処方が普遍的な真理と一致することもあった。これを否定することはできないのである。古い時代の汚濊駆邪術にも一脈通じるものがあった。