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 厠籌(そくちゅう)、古厠木、馬桶(マートン)は駆邪治病に用いられる。これは人糞尿駆邪法術から派生した支系。厠籌とは排便したあと、残りの汚れを取るための竹木筒である。

 唐人陳蔵器が『本草拾遺』で言う、難産および霍乱が引き起こすひきつけを治すには、床下で厠籌を燃やす。熱気を床席(簡易ベッド)に通すようにする。

 また厠籌は「中悪鬼気」を治療する。「これはわずかなもので功が得られる」。別の医書が言うには、子供がひどく驚き、うつむいて視線を上げることができないときには、(そうかく)を焼いて灰にする。児童の尿を「刮屎柴竹」(すなわち厠籌)に浸し、火で炒めて細かく砕く。そして皂角の灰と厠籌の粉末を合わせて子供の頭骨の割れ目(門、ひよめき)に貼り、魂を取り戻すことができる。


 古厠木は使われなくなった厠所(トイレ)の中の樹木や丸太のことである。『本草綱目』巻三十七が引く陳蔵器は言う、古厠木は鬼病と外傷によく効くと。「鬼魅伝屍(肺結核)、疫病、魍魎神祟、太歳による所在地、日時、当の家をくすべて、また杖瘡をくすべる。冷たい風は入れさせない」。


 馬桶(マートン)駆邪術は明清の時代に広く見られるようになった。『本草綱目』巻三十八に言う、尿桶旧板を煎じて水と飲めば、霍乱を治すことができた。尿桶旧箍(たが)を焼いて作った灰を足の掻痒や流血の傷口に塗る。これと上述の厠籌医方や古厠木医方はよく似ている。産婦馬桶をとくに汚濊として、術士は重視する。

袁枚は短文のなかで述べている。「湖広竹山県に老祖邪教があった。ただひとりが伝え、もっぱら客から物を盗っていた。その教派は二分したので、破頭老祖と呼ばれた。すなわち竹山子弟である。この法を学ぶ者はかならず雷撃に遭った。法を学ぶ者はまず老祖のまえで誓いを立てた。七世の人身と授法が無事であることに甘んじた。雷(激しい雷鳴)を避けるために、産婦は馬桶を七個用意せねばならなかった。除夜の日、孝麻の衣を着て、三年内に銀を運んで並べた。

 叩頭を終えると、馬桶(マートン)に三度入る。それで天神に圧力をかける。袁枚は記録と誇張の間にあって、産婦が馬桶に孔を開けて雷撃を避けようとした話は信用できるだろう。

 アヘン戦争が始まった18413月、数次にわたって白蓮教を攻めた楊芳は清朝政府によって広州へ送られ、英軍と戦うことになった。楊芳は英国戦艦が横行するのを阻止することができず、邪術で対抗するしかないと考えるようになった。ここに伝統的な「邪をもって邪を制する」法術を行うことにし、地方の保甲に[保甲制度とは10戸で甲、10甲で保を編成する制度]民間の馬桶を集めるよう命令した。それらを木の筏の上に載せ、烏涌砲台に出征した。当時の人は軽蔑をこめた詩を詠んでいる。

「楊枝無力で南風を愛す 参事官はいかに功を立てるのか 糞桶とはなんと巧妙な計略であることよ 汚れた声が粤(えつ)城中に響き渡るのだから」

 南方人は巫鬼、成風気(さかんになって好ましい風潮になること)を尊ぶ。詩の中の「南風」は巫術や巫のことばを指す。楊芳は貴州松桃の生まれだが、このあたりは巫術がさかんな地域だった。楊芳が生まれ育った環境と特殊な経歴を見ると、彼が近代文明に対して馬桶戦術を用いたのは偶然ではなかった。馬桶戦は楊芳個人の恥というより、このような高級将校の作る巫術の伝統と神秘的な文化の恥だった。立ち遅れた一面を見ることで、我々はさらにこうした事例から多くの啓示を得ることができるだろう。