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 清乾隆三十九年(1774年)七月下旬、秘密宗教結社清水教(八卦教)教徒が王倫らの統率のもと、反乱を起こした。反乱軍は寿張、堂邑、臨清旧城を攻め、つづいて臨清新城を取り囲んで攻めた。城を守る清朝緑営兵に清水教徒が邪術によってまぎれこんだ。呪文を唱え、彼らは銃砲の攻撃を受けてもよけることができた。世を見聞している知識ある緑営兵頭目は、裸体女人を用い、鶏や犬の糞、犬の血などで清水教徒の妖術を破解するよう命じた。

 清の官吏兪蛟(ゆこう)は『臨清寇略』に、目撃した新城の役(えき)について記している。官兵らが銃砲を放っても、城に攻め入る清水教徒を攻撃することがなかなかできないでいた。

「そこに突然ひとりの老武官が現れ、妓女を呼んで城に上げた。そして肌着を脱がせると、陰部を相手に見せた。そのとき(兵士が)大砲に火をつけると、群衆が見ている中で鉛丸が地面に落ちた。と思えば、突然跳ね上がり、人(清水教徒)のお腹に当たった。兵士や民衆の歓声が雷鳴のように轟いた。賊たちはこれでやる気が失せてしまったようだ。相手の巫術をどうすれば破れるか知っていた。老いた弱々しい妓女を裸で城にもたせかけさせ、鶏や犬の糞汁を箒でぶちまけさせた。これで砲弾は不発がなく、すべて敵に当たった。賊の頭は砕け、体は倒れ、胸に穴があき、脇は貫かれた。城の中に遺体の枕が並べられ、その数は千にも及んだ」

 清朝大学士舒赫徳(じょかくとく)が乾隆帝に提出した上奏文のなかに描かれている。

「臨清城南西に二つの門があり、それぞれ関聖帝君(関羽)神像が邪術の侵入を防ぐためににらみをきかしている。そして最初から銃砲を放ち、賊は向かってくると、叶信(武将)は黒犬の血が邪を破るという俗諺を思い出し、また女人が陰人であり、これまた邪を破ると聞いていたので、女人を垜口(だこう)[城壁の凹凸の低い壁]に置いて敵方に向かせ、黒犬の血を城中にまいた」

 清水教徒は銃砲の攻撃を受けない法術を有していると自認し、緑営兵もこれを信じ、畏れた。しかし緑営兵は裸の女性を用いておこなった厭鎮妖術に成功したと自認し、清水教徒も自分たちが「邪でもって邪を破る」法術に打ち破られたと信じた。この戦いの双方とも巫術を堅く信じていたのである。方以智は裸女を用いて大砲を圧伏した例を挙げている。緑営兵は裸女破解妖術を用い、大砲にあらたに霊性を与えた。二つの法術は区別すべきだが、その性質はまったく同じである。


 一世紀のち、類似したドタバタ劇が再上演された。記録によると、義和団と敵対する教会組織は両方とも裸の女人の威力を信じていた。艾声(がいせい)『拳匪紀略』に言う、「昨夜(河北保定の)張登が戦いを始めたとき、教堂の屋上に七台の大砲を置き、それぞれに裸の妊婦を乗せてこれを鎮めた。拳民(義和団団員)は三人の女性をおびき出し、彼女らの腹を裂くと、血が噴き出したが、大砲にはよく火が着き、拳民数十人を爆死させた」。

 義和団は「銃砲をよけることができる、火器によって体が傷つくことはない」と豪語した。またまず素食をとる決意をしたが、女人の禁忌をひどく畏れた。いったん傷を負うと、「汚物にけがされてしまった」と自嘲した。義和団と虎神営連合が西什庫(天主堂)を攻撃したとき、一か月たっても攻め落とせなかった。「たぶらかすような言葉や邪を鎮めるようなものがあまりにも多かった。楼上には陰部丸出しの女人がたくさんいた」。

 この記述は義和団を敵視する人によるものなので、誇張された面もあるだろう。しかし義和団が裸の女人を忌避し、法術が破解されるのを畏れたのはそのとおりだろう。教堂のほうからしても、大砲が義和団の呪文によって使えなくなるのを畏れ、「裸の妊婦」を、大砲を鎮めるためのものとして用いたのも事実だろう。裸の女人を用いて妖邪を駆逐したのも、二千年以上にわたって流布してきた巫術の一種である。こうした神秘的な意識は浸透して人間の精神の奥深くに入り込む。清水教、義和団、その敵の人々も、歴史や文化の局限を超越することはできなかった。このような見方をすると、彼らが裸女の辟邪の威力を信じたとしてもとくに奇異ということもない。