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漢代以来、巫術の領域には男女交合図像による厭鎮邪崇法があった。漢墓にはこれに類したものの出土がたくさんあった。墓中の死人のためにこの図像を刻んだり、銅と鉄で男根のようなものを作っていれたりした。淫靡な心理や放蕩の習俗があるかのようだった。これらは巫術的な鎮物だった可能性がある。この種のものを使った法術や裸女辟邪術の原理と汚物辟邪の原理は相通じるものがあった。古代の学者によれば、この種の図像はおもに蛟竜や火災を圧伏するために用いられた。実際何のために作られたかは推測の域を出ないが。以下の資料は考古学者の参考になればと考える。
清道光年間に大臣福申が編纂した『俚俗集』巻四十二「春画置墓」が引用する『韵鶴軒筆記』に言う。
『路史』に何俊が記す。我が家に漢代の画がある。絹織物でも紙(こうぞ)でもなく、車螯(しゃごう)の貝殻に描かれたものである[車螯はシャコガイ科の二枚貝]。これは蘇州姑蘇の沈辨之(しんべんし)が山東に来て画を売買して回ったものである。あちこち墓を盗掘して回ったとも聞く。それぞれの塚(つか)の下に数十石あったという。人物が描かれているが、今の春画のようなものである。男色のものもあった。その画は稚拙だった。この車螯とは蜃(はまぐり)のことである。
北斉邢子才『斉宣帝哀冊』に言う、攀蜃絡(輅)、哀泣す。王筠『昭明太子哀冊』に言う、蜃輅峨峨(俄軒)。すなわち知られている帝王の墓はみなこれを用いる。棺の四隅に(春画の貝殻を)置き、狐や兎に穴を穿たれるのを防ぐ。その画を描くのは厭勝に似ている。蛟竜の侵入を恐れるためである。春宮秘儀は最古の伝えであり、衣裳箱の中に入れておけば、虫を避けることができるという。またそれには厭勝の意味もある。
福申はさらに付け加える。「俗に火災を避けることができるという。またこの(厭勝の)意味もある」。
『韵鶴軒筆記』が引用する邢子才、王筠の二つの『哀冊』、『芸文類聚』巻十四、『梁書』巻八「昭明太子伝」(『芸文類聚』巻十六と同じ)にも見られる。ただし二つの『哀冊』中の蜃絡と『韵鶴軒筆記』の作者が言う車螯(しゃごう)とは同じではない。蜃絡、すなわち蜃車とは、霊柩を運ぶ喪車である。
『周礼』「遂師」に蜃車の名が見える。鄭玄は注に言う。「蜃車、柩路(輅)なり。柩路載柳、四輪が地に迫り行く。蜃に似ているのでその名を取った」。
蜃車と蜃蛤は関係ない。『筆記』の作者が蜃輅という言葉を挙げ、古代の帝王が葬送のとき副葬として蜃殻を入れると説明するが、これは誤りである。また副葬の蜃殻は「狐兎穿孔」を防止するためのものであり、蜃殻の春宮秘儀の画は蛟竜の侵犯を防ぐためのものである。どれも怪しい点があるのか、『筆記』にも「おそらく」「のよう」といった言葉が散見される。とはいえ『筆記』は当時春画癖虫の習俗があると述べ、福申も清人に春画避火の俗があると述べ、古代民間ではこの法術が広く使われていたと説明している。