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唐代に始まり、その後盛んになったのが石敢當の習俗である。宋人王象之『與地碑目記』によると、宋仁宗慶歴年間、張緯は県令に任じられ、福建莆田に派遣された。県府を再建しているときに地中から石碑が出てきた。その表面に「石敢当、百鬼を鎮め、災禍を厭う。役人は福利を得て、庶民はすこやかになる。風俗は教化され、礼楽はさかんになる。唐大歴五年県令鄭押字記」と刻まれていた。この発見から、唐代にはすでに石碑に「石敢当」の文字を刻んでいたのは明らかである。
元、明、清代、家の正門の道路側、橋梁、大道など要衝の地に石人や石碑を立て、禍邪を鎮圧するため、表面に石敢当の文字を刻んだ。なぜこの文字を入れたのだろうか。当時の学者にもさまざまな意見があった。陶宗儀らは、石敢当の名は前漢元帝のときの黄門令史遊(前48~後33)が著した『急就章』から借りてきたものだと認識している。『急就章』と『千字文』『百家姓』などの書はよく似ていて、学童を啓蒙するための識字課本である。書中に「宋延年、鄭子方、衛益寿、史歩昌」「朱交便、孔何傷、師猛虎、石敢当」などと人名に似たものが並ぶ。ここに石敢当という姓名が出てくるが、漢代以前、漢代に石姓が多く、敢当には「当たるところ無敵」という意味が含まれていた。
石敢当のうちの石敢が五代劉知遠の部下の勇士の名とする説がある。『新五代史』「漢本記」によると、劉知遠は石敢に鉄槌を袖に隠し、唐愍帝も役人の石敬瑭を保護させた。最後に石敢は愍帝の側近と格闘して死んでしまう。のちに人々を保護するために、門前に石敢当が立てられるようになるが、これは五代の石敢を象徴している。「それは当の者(石敢その人)である。甚だしく勇あるのは石敢のみである」。
この説は五代勇士の名を出して、さも根拠があるかのように言っているが、実際は牽強付会にすぎない。唐大歴年間に石敢当が立てられているが、当時の人々は百数十年後の石敢のことを知っていただろうか。また「石敢」と「当」を結び付け、「石敢当」という三文字を無理に作っているが、こじつけにすぎない。唐代以前の多くの大書法家、たとえば皇象、鐘繇(しょうよう)、衛婦人、王羲之、索靖らはみな『急就章』を書写した。これによってこの書は大きな影響力を持つにいたったのである。
唐代になって『急就章』はさらに広まり、著名な学者顔師古もこの書に注をつけている。この書を読んで誰が霊感を得たのかわからないが、書中の石敢当の石と鎮石の石を関連づけるようになり、輝く名称を借りて鎮邪の小石人や小石碑を呼ぶようになったのである。この巧妙に切り貼りされた名が確立されると、大衆が認識するようになり、ますます広く流布し、代々伝わって衰えることがなかった。もちに鎮邪の石を「泰山石敢当」と呼ぶようになった。五岳の泰山上の神石に由来すると強調したのである。こうして一歩ずつ鎮石は鬼魅邪崇に対する力を増強していく。