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 後世の巫師は古い石碑に鎮邪作用があると考えた。元代の陸友は『研北雑志』巻上で言う。元の恵宗至元年間、「句容県西五里石門村に呉の太守葛府君の碑が立っていたが、田野に倒れてしまった。それから一年、ある村で疫病が発生した。巫が言うには石碑を立て直せば平安になるという。民は助言を聞き入れて共同でこれを立てた」。

 碑を立てて疫病を駆逐し、除去して碑主を崇拝することのほか、石碑自体を聖化する要因があった。


 古代にはほかにも石で作ったものによって水害を鎮圧する習俗があった。古代の小説の描写によると、大禹が治水事業を手掛けていたとき、荊州でつねに氾濫を起こす「海眼」という穴が発見された。「禹は石を刻み、竜の宮室を造り、穴の中に置くと、水脈をふさぐことができた」。

 また伝説によると、秦国蜀郡守李氷は石を彫って作った犀牛(サイ)で水怪を鎮圧した[犀牛は牛ではなく文字通りサイ]。

 『芸文類聚』巻九十五に引用する『蜀王本紀』は言う。「江、水害をなす。蜀守李氷は石犀を5つ作り、そのうち2つを官府に、1つを市(いち)の橋の下に、2つを水中に置き、水精を制圧した」。

 こうした伝説は直接的ではないにせよ、古代の治水工事ではつねに石で作ったものを利用して水の災害を鎮めてきたことが反映されている。そのなかでも李氷伝説は実際にあったことと近いのではないかと思われる。

 漢代にはすでに李氷を青牛の神とする伝説があった[青牛の青は黒のこと。なお青牛は板角青牛のことで、太上老君が乗っていた牛]。青牛と犀はよく似ていて、李氷が石の犀牛を用いて水怪を鎮圧したことを背景に作った話と考えられる。当時の多くの人は、李氷が治理水患に成功したのは、石牛鎮水法によって力を得たからである。李氷は凡人ではなく、神か巫だった。

 宋代の黄休復[北宋の画家]は言う。「(李)公は道法によって鬼神を役使し、水怪を捕獲した。これによって川の氾濫をとめることができた」と十分にこの観念を反映している。神巫と神巫が用いる手段はしばしば同一視される。これによって神話作者は李氷が変成して石犀と同類の青牛になったとみなすのである。


 住居を鎮め、門を守り、水怪を制圧するなど、それぞれの及ぶ範囲は小さく狭いが、一部の官吏は石で作ったものによって町を整えてきた。唐の大暦五年、田県の県令鄭某(なにがし)が立てた石敢当と、後世の人が門を鎮めるために用いた石敢当とでは、厳密に言えば異なるものだった。それというのも石敢当は「百鬼を鎮め災厄を防ぐ」だけでなく、「官員(役人)には福利を、百姓(民衆)には安寧と健康をもたらし、社会の雰囲気がよくなることを、礼楽制度が発展することを」願った。その職責は、県令の職責をまねたものだった。つまり某家、某村のために存在するのではなく、田県のために邪悪なるものを鎮める任務を持っていた。

 伝説によれば唐の憲宗元和年間、(はいちゅう)が荊州に駐在しているとき、地面を掘ると、六尺の地下から石製の模型の城市がでてきた。楼台(テラス)や詰め所など、すべてが江陵城をまねて彫られたものだった。裴宙は一般的なオモチャだと思い、籬(まがき)の近くに持って行った。

 この年、新年が明けて以来長雨が連綿とつづき、四月になっても雨がやむ気配がなかった。江陵城内は海のようだった。このとき「洛中においてもっとも道学に通じているとされる」欧献が近くの楚山に居住していた。裴宙は馬に乗って馳せて欧献に対策について聞いた。

 欧献は答えた。現在、情勢が緊迫している。ここは石材を切り出し、細かく刻んで、五銖銭の陶范を焼いて、江陵城の模型を作るのがいいだろう。模型には城壁や門楼まである。これらはすべて江陵城に似せて作られたものだ。

 鋳造後南門の外に六尺ほど掘ってそれを埋めた。すると大雨はやんだ。裴宙はこれを聞いて、掘り出した石城が、先人が水患を鎮めるために用いた鎮物であったことを理解した。