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古代小説には妖石を鎮めて、人を移したところ、妖怪が逃げ出し、天下は大混乱に陥ったという描写がたくさんある。この「発石走妖」(石から妖怪が逃げる)という一節は、当時、妖石を用いて鎮める巫術がさかんに行われていたことの反映である。
白石に近い玉は古代において巫術のために用いられた。新石器時代の玉でできた佩物(帯飾り)、たとえば琮形(八角形の円柱)の玉管などは辟邪霊物として用いられた可能性がある。
殷代卜辞中の玉や珏(かく)を用いて神を祭るのはその一例である[珏は二つの玉を合わせたもの]。
春秋の頃、玉壁の類の宝物は河水に沈んでいると、同時に神霊に向かって誓いを立て、祈祷するのが慣例だった。
玉はきめこまかく、やわらかく、つやがある。霊的な状態になりやすく、鬼神と接触するさいに用いられる。春秋時代の楚の人王孫圉(おうそんぎょ)は言う。
「玉は五穀を守る、なぜなら水害や旱害を防いでいるから」と。
「火災(火の災害)を御す」ことのできる珠[珍珠、すなわち真珠]と同様、玉は国家六宝の一つである。
戦国時代には、陽明学から珠、玉の御災能力を説明する人がいた。
「珠とは陰の陽である。ゆえに火に勝つ。玉とは陰の陰である。ゆえに水に勝つ。神のごとく化し、ゆえに天子蔵珠玉という」。
戦国時代もっとも有名な宝玉は、和氏璧だろう。この宝石によって和氏は二度、冤罪事件が降りかかり、両足を失った。その波乱に満ちた由来は、さまざまな学者が取り上げている。
戦国時代、和氏璧は趙国の恵文の手元にあった。秦の昭王はどうしてもそれが欲しく、十五の城と和氏璧とを交換できないものかと考えた。これが藺相如(りんしょうじょ)完璧帰趙の故事である。[時の権力者、秦の昭王が趙の恵文の持つ和氏璧を欲し、十五の城と交換しないかともちかける。恵文がどうすればいいのかと考えあぐねていると、賢人の藺相如にアドバイスを求めてはどうかという声が上がった]
もし和氏璧がたんなる高級の鑑賞品であるなら、十五の城の価値があるとは思わないだろう。戦国時代の人がいかに玉の価値を高く評価したか、「玉は五穀を守る、なぜなら水害や旱害を防いでいるから」という考え方を知ってはじめて理解できるのである。
古代の道士はまた、玉を仙薬とみなした。「金を服用する者の寿命は黄金のごとく長い、玉を服用する者は玉のごとく長い」と。道士は玉を「玄真」と呼び、「玄真を服用する者はその命に限りはない」と宣した。
葛洪は玉の服用の仕方を紹介している。
「玉は烏米酒(黒米を原料とする米酒)や地楡酒(漢方でもあるバラ科の植物地楡の酒)に溶かしたり、葱汁によって飴にしたり、餌(餅菓子)状にして丸薬にしたり、焼いて粉にしたりして服用する。一年以上服用すれば、水に入ってもぬれず、火に入っても焼けず、切っても傷つかず、百毒に負けない」。
葛氏はまた言う。玉を服用するのに「すでに器となっているものを用いてはいけない」。人を傷つけるのに用いるときは「まず原石の玉を得れば、用いてもいい」。于闐(うてん)すなわちホータンから産出される白玉がもっとも効力があるとされる。
また言う、昔の神仙赤松子によれば「玄虫の血を玉の上ですりつぶした水(液体)を服用する。それゆえ煙に乗って自在に飛ぶことができる。玉の削り屑を水と混ぜてかたまりにして服用すればその人は死なない。
玉を服用して長寿を得る方法は後世に多大な影響を与えた。李時珍『本草綱目』巻八の条には、古代の道士が玉を服用することに対しどんな見方をしていたかが詳しく書かれている。李時珍は指摘する。
「漢武帝が金茎露を取り、玉屑を服用することで長寿をまっとうしたというのは、まさにこのことである。ただ玉が生者を死なせなかったことはなく、死者を腐敗させなかっただけである」。
李時珍は玉を服用して長寿を得るとする説は誤謬であると批判した。しかし玉を服用すれば死体が腐らないことは信じていた。玉石を神秘的とみなしたことは古代の医家に多大な影響を与えた。