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周代の葬礼のなかで使用する麻布は斬衰、斉衰、大功、小功、緦麻(しま)などの等級に分けられた。そのなかの大功、あるいは功布は七升から九升の麻糸(八十縷で一升)で織ったものだ。『周礼』中の道布はその質から功布に属すると言われる。功布が巫術的に用いられていたのは、当時の葬礼の表現から明らかである[功布は竿の先に白い布をつけた旗のようなものと考えればわかりやすい]。
『儀礼』「既夕」によれば、納棺したあと霊柩(ひつぎ)を半ば埋めた状態で一定時間置く。殯(ひん)の時期が終わると商礼(商代の礼儀)を熟知する「商祝」が「啓殯」儀式を掌る。商祝は手に功布を持ち、霊柩(ひつぎ)の前にやってきて、大きな声で呼ぶ。
「イー(噫)、イー、イー、チー(啓)、チー、チー」
そうして功布を用いて霊柩(ひつぎ)上の塵土を払う。「三声三啓」は死者を覚醒させ、通知する役目を持つ。功布を用いるのは、神霊を迎え、邪悪な気を祓うという意味合いが含まれる。正式に出棺するとき、商祝は手に功布を持って、霊車の前で行進の指揮を執る。もし道に高低があれば、布を左右、上下に動かして知らせ、後ろで霊車を牽く人は前方の地形を理解する。
このように、功布は高官の葬礼で茅旌(ぼうせい 旗)として使われる。すでに述べたように、旗はシグナルを送る道具であるだけでなく、辟邪し、露払いする巫術的な役割を持つ。すなわち商祝が手に持つ功布は、霊車を引導する旗であると同時に、邪悪なものを排除する、整然と進む葬送隊の巫術的な武器となっている。
漢の時代、新しく織った布帛によって辟邪を行う呪法は民間に広く行きわたっていた。彼らはつねに新しい布切れを襟に縫い付けたり、門上に掛けたりした。これによって疫病や武器による傷害が避けられると考えていた。
『淮南子』「説林訓」に言う、「曹氏の布切れ、蛷を貴いとする」。
高誘は注に書く。「楚人布を曹と名づける。今、俗世界で、布を織り、(机の)傍らにそれを掛ける。これが曹布と呼ばれる。さまざまな蛷を焼いて塗り込むと、癒える。ゆえに蛷は貴いとする」。高誘は明確当時の人がなぜ新布を掛けるのか説明していない。ただしその他の記述から曹布を治療に用いていることがわかる。曹布を身につけるのは一種の辟邪法術なのである。桃符や桃橛のように、辟邪したり、薬として使われたりして、曹布に虫の灰を塗って瘡蓋を治療する方法も、曹布辟邪法から派生したのである。
新布を掛ける巫術性に対し説明するのが、後漢の学者応劭である。応劭によれば、漢代の人は「あらたに取った切れた織物を戸に掛ける」。この五色の絹の布で癘鬼(らいき)や五兵を駆逐する。応氏はまた言う、疫病が流行しているとき、人はしばしば新しく織った絹の最後の一切れを用いて災禍を駆除する。「今、家人は新しい縑(かとり)を織っている。皆それを取ったあと、嫌(縑)絹二寸ほど戸の上に掛ける。霊験あらたかなり」。
漢代の学者は非信仰の角度からこの巫術現象の解釈を試みている。絹織物を織ったあと、衣服上にその一部を縫い込み、紡織(糸を紡ぎ、機を織る)の作業が完成したことを表示する。応劭が指摘するように、新帛(新しい絹織物)には辟邪の意味があり、同時に「織ったあと二、三寸の帛(絹織物)を切り、衣の襟に縫い付ける。これで諸姑(父の姉妹たち)に紡績が完了したことを告げたことになる」。
応劭の説には矛盾がある。応氏自身によると、後者は服虔(後漢の学者)から出た説である。本人は服虔の説に賛同しているように見える。実際、服虔説は信じるに足りない。女たちは姑らに向かって、織物が完了したことを告げたり、実証したりする必要があるだろうか。新帛を縫い込むといった稚拙なことをする必要はないだろう。彼女が話すことができないとか、「諸姑」が年を取り過ぎて歩けないのでない限り、新帛に何らかの効果を求めても意味がないだろう。