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上述のように道布、功布、曹布、縑布(かとり)などは、どれも染色していない生(き)の布帛である。それらを用いて神と接し邪を駆逐するのは、新布駆邪法術の原始的な方式である。これを一歩進めて変化し発展したのが、染色した朱糸、五彩絹、五彩糸などを用いて邪祟を辟除する法術である。
応劭[後漢の学者]は新帛辟邪法術の推移について語るとき、「時間がたつにしたがい、(素朴な糸の帛は)色とりどり(の帛)に変わりやすい」と述べている。
五彩辟兵術は(新帛辟邪法術から)転化したようである。事実はそう簡単ではないだろうが。新白辟邪法術が流行した頃、朱糸、朱縄を用いて悪神、悪気を制御する法術もまた盛んだった。論理的に物事を考えるなら、素帛(白帛)駆邪と五彩駆邪の法術の間には、いわゆる「承前啓後」(前人の事業を継承するので、後人が道を切り開きやすいこと)の法則があるといえるだろう。
朱糸駆邪術は中国の伝統的な法術である。鬼が赤色および赤い縄を畏れると一般的に認められている。これは古代中国の民衆の感覚である。またこの信仰風習は仏教起源ともいう。しかしどちらも史実とは符合しない。
春秋時代、晋国大臣荀偃(じゅんえん)は朱糸で結んだ双玉を捧げて、河神に対し祈った。春秋の人々は朱糸に神秘的な意味を持たせていたのである。
『春秋』「荘公三十五年」には、この年六月に日食が発生したと記載されている。魯国の君主と臣下は社壇の上で太陽を救うため、太鼓を叩き、犠牲を捧げた。
『公羊伝』には別の太陽を救う方法が記載されている。すなわち朱糸によって社神位牌をひとまとめにして縛り上げる。後漢の何休はこの意味をつぎのように解釈している。
「あるいは言う、これを威嚇すると責めたてるのは同じ意味であると。社とは、土地の主である。月とは、土地の精であり、天にぶら下がって太陽を犯す。ゆえに太鼓を打ち鳴らしてこれ(社)を攻める。その本体を威嚇するのである。朱糸で社壇を囲い、陽が陰を抑えるのを助ける」
赤は陽に属する。赤い糸で陰気の社主をくるんでいき、陽気が陰気を撃退するのを助ける。そして陰物に取り囲まれた太陽を救出する。『公羊伝』の最後は前漢の初年度で、そのときにはこの書が成立している。これはすなわち朱糸駆邪法術は漢代はじめにはあったということである。これでは仏教と関係がある習俗とは言えないだろう。
後漢時代、毎年五月五日になると、「彩色模様の赤い帯を門に飾り、悪気を止めた」。『続漢書』「礼儀志」は解説する。「仲夏(農暦五月)、万物は盛んに茂り、夏至になると陰気の兆しが見え始め、ものが繁茂しないことを恐れるようになる」。
このように陽気を代表する赤い帯で陰気を制御しなければならない。そのときからたまたま赤い帯を飾る時期が五月五日に固定されるまで、長い年月が流れている。後漢の時代の赤い帯を飾る習俗は突然現れたわけではなく、前漢、あるいはさらに古く、秦代以前に起源を遡ることができるかもしれない。