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漢代の人が用いた五彩絹布にはつねに鬼神の名称が題目としてついていた。『太平御覧』巻二十三に引用する『風俗通義』に言う。「夏至に五彩辟兵(の絹の飾り)を着ける。題は遊光(あるいは)知られているように厲鬼である。これで温病(うんびょう)にかかることはない。五彩とは五兵を避けるということである」。
「題は……厲鬼である」は、五彩繒(きぬ)の上に遊光、あるいは世の人が知る別の厲鬼の名を書くという意味である。
また応劭によると、後漢順帝永建年間に洛陽一帯で疫病が大流行した。民間では大騒ぎのなかで疫鬼の名が「野重遊光」と伝えられた。だれも実際にこの疫鬼を見たことがなかったので、流言飛語が飛び交ったが、信じないわけにはいかなかった。
「その後何年にもわたって疫病は消えなかった。人は恐れ、憂いはなくならず、題を増して禍から脱することを願った」。この「題を増す」とは、「遊光」の二字に「野重」の二字を足すことによって鬼名が完成したことを指す。
応劭は「五月五日に五色絹布を集め、兵を避ける」に関する問題点について教えるよう当時の大学者服虔に乞うた。服虔は巧妙な答えを示した。彼は言う。赤、青、白、黒は四方を象徴する。黄色は中央を代表する。この雑多な色の絹布を「襞にして」(折りたたんで)四角い形にし、胸の前に縫って綴じる。「これによって女性の養蚕の功を示す」。
当時の農民が用いた麦わらを織って作った簾(すだれ)を門に掛けるのも、同様に「これによって農民の功を示した」のである。
のちにこの伝説は誤って伝わり、折りたたむという意味の「襞」が辟兵の「辟」と誤解された。五色絹布辟兵のことと考えられたのである。服虔は五色絹布を着けることによって武器による傷害を避けられるとは考えなかった。ただその理性的なふるまいには敬服した。彼はことばが伝播するなかで間違いが出てくることを認識していた。しかし道布、曹布から朱糸、そして五色絹布へと変化していったことに関して詳細に考えたようには見えず、結論は不正確だった。
応劭が書き記したものを分析すると、漢代の五色絹布と五色糸の使用法と効能には区別があった。胸の前の襟に綴じ込んだ五色絹布は、おもに武器の傷害を免れるためのものだった。「五彩とは、五兵(兵器)を避けるということである」との意味だった。五色糸を腕にかければ、延年益寿、長命無災、辟兵がもたらされる。ゆえに五彩糸は「長命縷」「続命縷」と呼ばれる。
後世の道士は五色絹布辟兵術を継承し、発展させた。葛洪『抱朴子』「登渉」に言う。
「名山に入り、甲子の日を開除日[開始あるいは結束の吉日]とし、[神霊と通じるために]五色絹布各5寸を大石に掛けると、必ず求めるものが得られる」。
「開除日」とは、古代の「建除」信仰(原著は迷信と呼んでいる)の専門の述語である。子(ね)の日から亥(い)の日までを建、除、盈、平、定、執、破、危、成、收、開、閉の12の名目に分け、毎月建・除の日に組み合わせを確かめる。毎日組み合わせが異なる。たとえば「正月建寅除卯」「二月建卯除辰」といったぐあいに。〇月△日、建に属す、△日、除に属す、などなど。表を見て組み合わせを確認することもできる。睡虎地秦簡『日書』には、組み合わせの表を列挙している。
葛洪の言う開除日とは、この月の開日と除日のことである。つまり、甲子日や開日、除日に当たるたび、五寸の長さの五色の絹布を巨石に掛ける。すると「必ず求めるものが得られる」という神効がもたらされた。