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 五月五日は詩人屈原を記念する伝統的な祭日だ。漢代には五月五日に長命絹布を掛ける習慣があった。五彩糸駆邪法は屈原の伝説が生まれたのと関係があった。応劭は指摘する。

「五月五日に五彩糸を腕にまとえば、武器や鬼を避け、温病にかからずにすむという。これも屈原による」。

 五彩糸と屈原にどういう関係があるのか応劭はあきらかにしていない。南朝の頃、小説家の呉均は神話の形式でその間の関連性を補った。

 呉均は『続斉諧記』のなかで、屈原は五月五日、自ら汨羅(べきら)に入水して死んだという。それ以来楚人はこの日、米を盛った竹筒を水に投げ、屈原を弔うようになった。

 後漢建武年間、長沙人区曲は屈原と名乗る人物と出くわした。その人物は言った。

「聞くところによると、あなたはいつも祭に来てわたしを弔ってくれるそうですね。とてもすばらしいことです。ただいつも投げ込む食べ物は蛟竜に盗られてしまうのですが。できるならば、食べ物を栴檀(せんだん)の葉でくるみ、彩糸を巻いてくださらないでしょうか。この二つを蛟竜は忌み嫌うのです」

 区曲は言われたとおりにした。最後に呉均は結論を述べる。「今、五月五日に粽(ちまき)を作り、栴檀の葉にくるみ、五花糸を巻くのは、その名残である」。[『続斉諧記』の異本は多く、言葉も大きく異なる。たとえば区曲が区回になっている。ただし故事の中身はほぼ同じである。どれも彩糸や五色糸に言及している]


 南朝の宋文帝元嘉四年(427)三月、文帝劉義隆は冨陽県令諸葛闡(しょかつせん)の建議を取り入れて、夏至の日の五糸命縷(五彩の布切れ)を禁じた。このような禁令が出される理由はわからないが、実際このような禁令が出されても影響は少なかった。このような例外はあるものの、漢代から明清代に至るまで、五彩糸を飾るのは、端午節に欠かせない要素だった。

 『荊楚歳時記』に言う、「(五月五日に)五彩糸を腕に掛けることを辟兵(武器によるケガを避ける)という。それによって人は温病にかからない」と。これは南朝の気風を表す風習と言えるだろう。

 『酉陽雑俎』「礼異」は指摘する。北朝の女性は五月五日に「長命縷(布切れ)、宛転縄(腕に巻き、人形に結び付ける縄)を買い、皆人形に結んでこれを身につける」習わしがあった。長命縷を人形に結ぶのは北朝の特長的な習俗だった。

 唐宋の時期には、長命縷を掛ける習俗はすでに古臭くなり、変化が見られた。たとえば宋代の「結百索」はそうした古い習俗が変化した新しい方式だった。

 当時の学者は指摘する。

「端五百索、長命縷などの遺風は廃れて長く……しかしその習俗はさまざまな形でつづいている」「百索すなわち朱索の名残である。もともと門に飾っていたが、今は腕に飾っている」。

 清代の人は五月五日に「五色糸を結んで索(縄)とし、子供の腕に掛ける。男の子なら左手に、女の子なら右手に」。また新しい名称「長寿線」が生まれた。


 応劭(おうしょう)、宗(そうりん)らは長縷褸に関する論述で両者とも条達[五月五日に贈り合う絹織物の装飾品]に言及している。文献によっては「条脱」ともいう。これは現代のブレスレットである。ブレスレットをするのと五彩糸を着けるのは同じことである。はじめは巫術的な意味が大きかった。そのうち装飾品となっていくのだが、風俗はこのように変化していくものだ。