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漢代の剛卯(ごうぼう)の大きさや銘文の文字数は統一されていない。服虔が言うには、「長さ三寸、幅一寸」とのこと。晋灼(しんしゃく)は「長さ一寸、幅一分」とする。司馬彪(しばひょう)は『続漢書』「與服志」の中で剛卯は「長さ寸二分、方六分」と述べている。[1尺は33センチ、1寸は3.3センチ、1分は0.33センチ]
後世の学者は出土した剛卯、代々伝わる剛卯と上記の三つの説明を比べて、ほぼ正確であることを確認した。唐代の顔師古は言う、「最近よく土中から玉剛卯が見つかる。これらの大きさや文字の数は服(虔)が言った通りである」。
清代の呉大澂(澄)は『古玉図考』の中で服(虔)説は間違いと述べている。現代の人陳直は剛卯が出土することそのものが証拠であり、晋灼説と符合すると考える。
実際、司馬彪が言うように、官方の規定で作られた剛卯はみな同じだった。それ以外の民間で使用される剛卯は、その大きさも銘文の字数も、ことごとくすべて少しずつ違っていた。
『説文解字』に言う、「亥殳巳攵、大剛卯である。もって精魅を逐う」。[「亥殳」「巳攵」という組み文字]
『急就篇』に「鬾(き)を射て、邪を避け、群凶を除く」の一節がある。顔師古の注は以下の通り。
「鬾を射るとは、大剛卯のことである。金玉と桃木を刻んでこれを成す。一名「亥殳」「巳攵」(上と同じ)、上に銘がある。傍らに孔があり、彩糸を通し、腕に吊るす。これによって精魅を駆逐することができる」。
大剛卯があるなら、かならず小剛卯がある。つまり漢代の民間では剛卯を用いるとき、その寸法の統一規格はなかった。
前漢、後漢の時代、高官貴人であろうと、庶民であろうと、みな剛卯を身につけていれば疫鬼や精魅を駆逐できると考えた。王莽は王朝を簒奪したあと、民衆が劉の時代をなつかしむことをとくに恐れ、劉字と関係する風俗や制度を一掃した。西暦9年、王莽は正式に皇帝と称し、命令を発布した。民衆が剛卯を佩帯することを禁じたのである。また同時に刀の形をした貨幣を禁止した。
なぜなら、劉という字が卯、金、刀から成り立ち、「正月の剛卯、金刀の利」が劉字と関連づけられ、劉姓皇帝をなつかしむ気持ちが誘発されると考えられたからである。王莽の禁令は剛卯の辟邪法が広く流行していたことの証しとなった。漢代の辺境守備の軍人も、剛卯を佩帯していたことが、『居延漢簡』に「木剛卯二品」という記述があることからもうかがえる。
後漢の頃、朝廷は役人の等級に応じて剛卯と縄の素材を明確に規定していた。すなわち皇帝、諸侯王、公、列侯は白玉、二千石から四百石の官吏は黒犀、二百石と私学の弟子は象牙を用いた。皇帝が剛卯に結んだのは玉糸であり、玉糸には白珠を連ねた。また赤いフェルトの飾りをつけた。諸侯以下の功臣や官吏は赤い糸を用いた飾り物をつけた。剛卯の素材はどれもほぼ同じだった。
漢代以降、剛卯を身につける習俗はしだいに衰えていった。ただし剛卯の偽造をしようとする者が減ることはなかった。彼らは漢代の剛卯の銘文の意味を理解せず、「修爾国紀、惟兹霊式、既彜既勅、処陵煙癉」といった意味不明の文を刻んだ。
陶宗儀『輟耕録』巻二十四に「剛卯」の条があり、ある人が収蔵する厳卯につぎのような文字が刻まれていた。
「制日厳卯、帝令莫忘、日資唯是、黑青白黄」。漢代の厳卯の銘文とはなはだしく異なっている。後人の偽造とみなされる。[剛卯と厳卯は、形状は同じだが銘文が異なっている。どちらもお守りであり、魔除けである]
漢代には夏、門の上に辟邪気のため桃木の剛卯を門に掛ける習俗があった。『後漢書』「礼儀志」に言う、夏至の日に発せられたばかりの陰気を制御するために、長さ六寸、方三寸の桃印に五色の銘文を書く。よって門に施す。ここに言う桃印とはその他の文献では桃卯とされている。すなわち桃剛卯である。その大きさは佩帯する剛卯より大きく「亥殳」「巳攵」に属する大剛卯である。桃印を掛ける制度は三国時代までには公的に排除されている。ただし宋代までは民間で細々と古代流が生きながらえていた。