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 銅鏡が霊的なものになったのには、具体的に二つの原因がある。第一にそれは焦がし、火をつけられること。周礼の規定で、祭礼中にたいまつに火をつける必要があるとき、「夫遂」を用いて日光から明火を得た。「夫遂」は漢代以降「陽遂」「陽燧」などと称したが、いわば火を獲得するための凹鏡である。「夫遂」は太陽から火を得たので、その火は明火と呼ばれた。

 頻繁に陽燧を用いて火を取ったことにより、人はあることに気がついた。銅鏡の焦点をある人物、ある物にあてれば、対象を焼いて、傷つけられるのではないかと。巫師は鏡で邪を駆逐し、このことを教え導いた。

 第二に、鏡の表面に凹凸があり、映し出したものが怪異なるものに見えたこと。「徐鉉は鏡を得ると、人を照らして一眼で見た。宗寿は古い鉄鏡を持っていた。照らして見ると酒楼の上に青い衣を着た子供が座っていた。杭州の彭城の謝が市で鬻(いく)の上に鏡を見つけた。映る顔はいつも通りだが、背後の人の顔はみなさかさまに見えた。あごが上だった。そのときどれほど震撼しただろうか」。

鏡に映るのは、鏡の中から見る妖魅である。これは怪現象だった。銅鏡は日光から火を得ることができるだけでなく、妖魅を映し出すことができた。人々は銅鏡にいっそう測りがたい神秘性を感じるようになった。


明鏡駆邪法術は秦漢の頃に形成された。『西京雑記』巻三に言うには、秦朝咸陽宮に大型の方鏡があり、人の五臓や病源を映し出した。「女子に邪心があれば、胆(胆臓)が膨張し、心(心臓)が動いた(動悸があった)。秦始皇帝は宮廷人をよく鏡に映し、胆張心動があれば、その者を殺した」。

 この書はまた言う、漢武帝は戻太子(れいたいし 劉据)を死刑に処すと決め、戻太子の孫の劉詢を監獄に入れた。まだ幼児だった劉詢の腕に五色のひもと身毒国伝来の「大如八銖銭」の宝鏡をつけていた。「古い言い伝えによれば、この鏡は妖魅を映すという。それを身に帯びた者は天神の祝福を得ることができる」ので、劉詢も危機を脱することができた。そして最後には皇帝になった。

 これらの伝説を見ると、秦漢の時期、明鏡は巫術の実践に用いられていた。漢代には、棺の蓋の上に銅鏡を置く習俗があった。鎮墓(死者の魂を守るために辟邪のものを置く)のために銅鏡が使われたのである。後漢の銅鏡には「洞照心胆、屏除妖孼(ようげつ)」という銘文があった。これらは上述の伝説を裏付けている。