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 古代の道士は明鏡の威力を重視した。つねに明鏡を用いて駆邪法術をおこなったのである。葛洪『抱朴子』は二か所で鏡の巫術の効用について詳述している。彼は鏡が予測に用いられるだけでなく、除鬼にも用いることができると認識していた。

 この書の「雑応篇」に言う、将来の吉凶、安危、去就を知るために、九寸以上の明鏡を自照し(鏡に自らの姿を見て)、凝神静思し(神経を集中して沈思黙考して)、七日七晩ののち神仙が見えるようになる。神仙は男にしろ、女にしろ、老いていようと、若かろうと、一旦出現すると、鏡を見る者に啓示を与える。それは「千里の外から来たことである」。[私(訳者)は四川・雲南省境の山中のモソ人(ナシ族支系)の家々を訪ね歩いたことがあるが、ダバ(宗教祭司)の家にはかならず銅鏡があった。銅鏡はぼんやりとしか映らないが、明鏡もこの程度だったのではなかろうか。現代の鏡のような鏡は古代にはなかった]

 照鏡のとき、一枚の明鏡を用いてもいいが、同時に二枚、あるいは四枚用いることもある。二枚の鏡を用いながら「日月鏡」と叫び、四枚の鏡を用いながら「四規鏡」と叫ぶ。「四規とは、これを照らすとき、前後左右を照らすことができるからである」。その東西南北を照らすことができるので、さらに多くの神仙を見ることができる。

 葛氏はまた言う。照鏡がもっともうまくいくのは幽静なる山中で修練するときである。目はわきを見ることがなく、耳は余計な音を聞かず、精神を集中することができれば、かならず道を成し遂げられると。

 三童九女、九頭蛇などが出現するだけでなく、誰かが意見を聞きに来たり、叱責しに来たりするかもしれないが、相手にする必要はない。修練者は一心に太上老君の真の姿だけを思い描けばいい。いったん鏡の中に老君を見たなら、「寿命は延び、心は日月のようになり、知るべきことは何もなかった」。


 『抱朴子』「登渉」に言う。世の中のすべてのものは、老いて精となる。どれも人の姿に変成して人を惑わし、たぶらかす。ただ彼らにも弱点がある。鏡には自分の本当の姿を隠すことができないのだ。これにより、「入山する道士はみな直径九寸以上の明鏡を背中に掛けた。老魅はあえて人に近づこうとはしなかった」。[老魅は、長い時間を経てゆっくりと変成した妖怪]

 もし前方に呼ぶ人があったら、まず振り返って鏡を見る。(鏡に映っているのが)仙人か山中のいい神なら、鏡の中の姿は変わらない。もし鳥獣邪魅なら、かならず原形があばかれるはずである。老魅はまた後ろ向きに歩く習慣があった。彼らが歩いていくのを待って鏡に映してみるといい。彼らにかかとがないことに気づくだろう。

 葛氏は例をあげて言う。蜀郡雲台山の石室で静座し修練を積むふたりの道士がいた。突然黄色い衣を着て、葛巾を頭に載せた人が慰問にやってきた。

「道士のみなさんはたいへんだなあ! このような人里から離れた寂しい山中でがんばっておられるとは」

 ふたりが鏡に映してみると、そこにいるのは一匹の鹿だった。彼らは鹿をしかりつけた。

「おまえは山中の鹿のくせに人の姿を取るとは!」話が終わる前に鹿はあわてて逃走しようとしていた。

 林慮山の麓の公亭につねづね騒鬼[原文は鬧鬼。騒々しい幽霊]が出た。公亭に泊まっている人は死なないが病気だった。患者が言うには、夜数十人がやってきて大騒ぎをしたという。男女が入り混じり、衣の色は一つではなかった。

のちに道士郅伯夷(しはくい)がこの公亭で一夜過ごしたとき、ロウソクを明るく灯したまま、坐って読経した。夜半に、はたして数十人がやってきて大騒ぎした。郅伯夷も賭博に興じた。彼がひそかに小鏡を取り出して映してみると、そこには野犬の群れがいた。

 柏夷はロウソクを持ったまま立ち上がり、ロウソクを落としたふりをして彼らの衣に火を着けた。すると犬の毛が焦げたようなにおいが漂ってきた。

 ここで彼は小刀を取り出し、ひとりに突き刺した。その人は死に、もとの姿を現した。ほかの犬はみなばらばらに逃げ出した。このとき以来、公亭に騒鬼(鬧鬼)が現れることはなくなった。

 葛洪は結論づける。郅伯夷が敵に克ち、勝利をおさめたのは、「鏡の力である」と。