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 唐代の有名な辟邪(魔除け)の宝鏡は楊州鏡である。この種の宝鏡は毎年五月五日に江心舟のなかで鋳造した。ゆえに水心鏡、あるいは江心鑑と称した。[揚子江の真ん中で鏡が鋳造された]

 唐人李政の小説『異聞録』に述べる。唐天宝三載(744年)五月十五日、楊州は皇宮に水心鏡を貢物として献上した。この鏡は太陽のように清らかに輝いた。背面には蟠竜が鋳られた。唐玄宗は一目見ただけで奇異なるものとして感動した。

 進鏡官揚州参軍李守泰によると、この鏡を鋳造するとき、ひげや髪が真っ白で、白い衣を着て、自ら竜護と名乗る老人が、黒衣を着た、玄冥と名乗る童(わらわ)を連れて、突然鏡の鋳造現場に現れ、一臂の力(わずかの力。謙遜した言い方)をもって助けたいと申し出た。煉炉のそばにへばりつき、門をぴったり閉めて、他人が入ってくるのを許さなかった。

 三日三晩ののち、門が開かれた。工匠呂暉(ろき)らは煉炉に白紙が貼ってあるのに気づいた。それにはこう書いてあった。

「鏡竜長さ三尺四寸五分、三才(天人地のこと)に則り、四気(温、熱、冷、寒のこと)を象り、五行(金、木、水、火、土)を賦与する。縦横九寸、九州に分かれる(世界が九つに分かれるように鏡も九つに分かれる)。鏡鼻は明月のごとき珠玉である。開元皇帝[唐玄宗を指す]は神霊に通じているので、われついに地上に降りて祝福する。鏡はこのように辟邪の力があり、万物を鑑みる。秦始皇帝の鏡、ふたたび増えることはなく(今はこの鏡があるので必要ない)……」

 呂暉らが仙書を見て、鏡炉を船内に移した。そして五月五日午時に揚子江の中央(江心)で正式に鋳造することになった。作る際に江水(揚子江の水)は突然三十余尺も盛り上がった。そのさまは川から雪山が浮かび上がったかのようだった。また竜の吟ずる声が、それは笙(しょう)の音のようでもあったが、数十里離れたところまで聞こえた。

 当地の老人は言う、鏡を鋳造して以来、このような珍奇で壮観な光景は見たことがなかった。唐玄宗はこれについての説明を聞いて、収蔵官によく保存するよう命じた。

 天宝七載、関中で大旱が発生し、唐玄宗は自ら祀竜堂に出向き、雨が降るよう祈ったが、霊験はなかった。道士葉法善は奏上した。

「真竜とよく似た竜形(竜神像)が、真竜に感応し、求めに応じて雨を降らすと聞いたことがあります。現在雨を祈っても霊験がないのは、雨乞いの竜が真竜に似ていないからだと思われます」。

 そこで唐玄宗は家臣に命じて葉法善を皇宮の宝庫に連れていかせ、竜に似たものを探させた。葉氏は宝庫に入るなり揚州鏡を発見した。彼はふたたび奏上した。

「これは鏡竜です。真竜にほかなりません」

 翌日、葉氏はこの鏡を用いて儀礼をおこなった。しばらくすると鏡の背面の蟠竜から二つの白い気体が噴出した。大殿の梁で二つの白い気体はぶつかり、そこから広まってあっという間に宮殿全体を包み込み、さらには都全体に充満した。すると甘霖が降りはじめ、七日してようやく止んだ。

 このあと唐玄宗は特別に大画家の呉道子に銅鏡の蟠竜の竜図を画かせた。玄宗はそれを鑑賞したあと葉法善に賜った。


 「五月五日に揚州の江心で鏡を鋳造する」のは唐代の習俗だった。白居易の『新楽府』の一篇「百煉鏡」はまさにこのことを詠んだ詩である。楊州鏡と関連した神話伝説の影響はきわめて大きかった。宋代の詩人は端午の帖子詞のなかで揚州鏡の典故(故実)を用いるのが常だった。ある人はこう書いた。「いつまた江心鑑(鏡)を献上するのか。君王が邪悪なるものを撃退するのを助けるのか」と。[帖子は客人を招待するときの知らせのこと]