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隋唐代の小説のなかでも古鏡が妖怪を駆逐した伝奇故事は少なくない。唐人李隠は『瀟湘録(しょうしょうろく)』のなかで言う。鼠精(ネズミの妖怪)の群れが少年に変成し、長安で道行く人々を襲って殺した。そこである道士が手に古鏡を持ってこれを照らすと、少年の群れは鎧兜(よろいかぶと)を捨て、逃げ出した。この書にはまた、古鏡を用いて碁盤の精怪を映し出すと、碁盤が突然はねあがり、そのあと地面に落ちて砕けるという神奇なさまを描いている。
古鏡の神力を誇張して描いた小説のなかでももっとも有名なのが隋の王度の『古鏡記』だろう。この作品は古鏡の駆邪(邪悪なものを駆逐する)を描いた故事である。人をひきつけて夢中にさせる奇文といえるだろう。小説をまとめるとつぎのようになる。
汾陰(ふんいん)人の侯生は臨終のとき、黄帝が鋳造した十五枚の鏡のうちの八枚目を王度に贈与し、言い聞かせるように語った。「この鏡を持つということは、百邪を人から遠ざけるということだ」。
この鏡の直径は八寸、鏡鈕(取っ手)は麒麟がうずくまった形をしていて、鏡鈕を囲むように亀竜風虎が鋳られている。その外には順次八卦、十二属相、二十四の銘文が配置されている。
大業七年六月、王度は鏡を持って長安にやってきて、程雄の家に寄宿した。程家の鸚鵡(おうむ)という名の下女が遠くを見やると、王度が古鏡をもてあそんでいた。女は走り寄って叩頭して許しを求めた。もともとこの女は華山神廟の前にいた千歳のタヌキが変じたもので、苦難に満ち、困窮して流浪する運命にあった。程家に一時的に住んでいたのだが、不意に天鏡と出会い、姿を隠しておくことができなかったのである。王度は悲惨なその身を憐れに思い、しばらくは古鏡をしまっておくと約束し、また彼女がすきなだけ酒が飲めるように、酒宴を開いた。鸚鵡は酔ったあと、衣を振って塵を落とし、舞いながら「宝鏡、宝鏡、哀しきかなわが命」と悲哀の歌をうたった。タヌキは女の姿のまま死んだ。
大業九年秋、王度は芮(ぜい)城に至り、県令になった。県府庁舎の前に数丈の高さのなつめの樹があり、県令がその職に就いたとき、この樹を祀らなければならないと聞いた。でなければ大きな禍に見舞われるというのである。
王度は樹のなかに精魅がいるにちがいないと考えた。そこでひそかに古鏡を樹の枝に掛けた。夜、二鼓を叩くと、突然雷鳴がとどろき、一陣の狂風と暴雨がやってきた。
翌日、紫の鱗に覆われた赤い尾を持つ、緑の頭に白い角の生えた、額に「王」の字が書かれた長蛇が樹の上で死んでいた。王度は巨蛇を燃やし、蛇洞を埋め、この怪物を完全に滅ぼした。
同じ年の冬、大飢饉が発生し、疫病が流行した。王度の部下の張竜駒は、一族数十人全員が病気で倒れた。王度が鏡を持って張家にやってくると、夜、竜駒に鏡を持たせて照らして見た。その結果、患者はみな鏡に一輪の明月を見たことがわかった。それは「氷のごとく体につき、内臓をひんやりと冷やす」。すると熱はたちまち消え、一晩のうちに全員の病気が治った。
大業十年、王度の弟王績(せき)は古鏡を持って世界中を旅した。三年後、喉って来ると言った。「この鏡は真の宝物である」と。というのも嵩山(すうざん)で、人に化けて活発に論じている亀精と猿精を古鏡に映し出して殺すことができたからである。
太和県では赤い首、白い額、竜形で蛇の角の鮫精を映し出して殺した。
汴梁では、張琦家の大雄鶏精を映し出して殺し、この鶏精に惑わされていた張氏の女(むすめ)を救い出した。
揚子江の南に渡ったとき、鏡をもって乗舟し、烏雲(黒雲)を追い払い、風浪を鎮めた。
攝山の芳嶺では、熊鳥が威嚇するなか、鏡で道を開いた。[熊鳥は、山海経では鴖鳥(みんちょう)とも呼ばれる怪鳥]
浙江を渡るとき、鏡で川を映し出すと、鼋鼍(げんたく)が走り去ったという。[鼋はスッポン、鼍は揚子江ワニのこと]
豊城県では、夜間に女子にまとわりつく黄鼠狼精、老鼠精、蜥蜴精を鏡に映して殺し、李氏の三女の魅病を治した。ある人が王績に言った。この鏡は天から賜ったものである。人間世界に長くとどまるべきものではない。ゆえに返却せねばならない。宝鏡を兄のもとに返さねばならない、と。
はたしてこの年の七月十五日、「箱の中から悲鳴が聞こえてきた。その声ははるか遠くにまで響き渡った。声はしだいに大きくなり、虎か竜の吼え声のようだった。長い間声は轟いていた。ようやくやみ、箱をあけると、鏡はなくなっていた。
『古鏡記』の素材は、当時流行していた明鏡駆邪活動から来ていた。小説冒頭の古鏡の描写を見ると、隋唐時代から伝わる巫術用の鏡と何と似ていることか。つまり古鏡の奇異な物語の出現も隋唐時代だったということである。明鏡駆邪巫術が頻繁に運用され、全面的に普及し、特殊な作品が誕生する可能性があったのはこの時期だったということである。