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 照妖鏡の習俗および伝説は詩人や小説家にインスピレーションを与えてきた。彼らは大量の『古鏡記』のような作品を創り出して来た。今もなお読みつかれているようなまばゆいばかりの作品群である。『西遊記』は托塔李天王が持つ照妖鏡が捉えた孫悟空の故事であり、『紅楼夢』は足を引きずった道人(道士)が賈瑞(こずい)に贈った風月宝鑑(鏡)に見える筋立てである。これらの書き方は作家が巫術的な素材を加工して作品に取り入れた典型的な事例である。


 古代民間の婚礼のような習俗、部屋の配置、葬送、占い、どれをとっても明鏡駆邪術がおこなわれた形跡があった。宋代の一般の婚礼でも、新婦が下車したあと、ひとりの女郎が鏡で新婦の顔を照らしたり、後ろに下がったりしながら、新郎の家に引き入れていった。

 明清代になると、術士は新婦に自ら鏡を持つよううながした。「新婦は紫の服を着て、明鏡を抱き、不吉なものを遠ざけ、吉祥を招き寄せた」。

 清代においても、生活について書かれた書のなかで、古訓はこのようにするよう強調している。居室の配置についても、明清代の人は認識していた。「家の中に大鏡を掛け、邪悪な者を避けるべし」「部屋の中に大鏡を置き、夕暮れや明け方にこれを映し、健康を増し、邪悪なものを遠ざけねばならない」。こうした生活の秘訣は、道士の日月鏡法術や四規鏡法術から来ているのは明らかである。


 漢代にはすでに副葬品として鏡がいっしょに葬られる習俗があった。前漢時代、霍光が死んだあと、漢宣帝は彼に「東園温明」を賜った。東園は少府に属する機構である。温明は一種の器物だった。「四角い形の漆の桶で、表を開けると漆画があり、そこに鏡を置くと、遺体の上に掛けることになった。そして鏡を収め、蓋をした」。

 漢代の温明は特別で、鏡には鎮墓の役割があった。おもに死者のために地下の悪鬼を駆逐した。

 宋代と清代に類似した葬俗があった。当時の学者は、棺材の上に鏡を吊るすのは、光明を取り暗闇を破壊するという意味にとらえた。唐代の段成式は『酉陽雑俎』「尸」で完全に相反する習俗に言及する。

「死者を送るのに葦(あし)の革はよくない(柔らかすぎる)。鉄の器物や銅の鏡を匣の蓋に使うことはできない。死者に明かりを見せることができないからだ」

 確実に言えるのは、銅鏡を副葬品として入れないのは、鬼を制圧する武器があらたな鬼を招くのではないかいう不安を覚えたことである。副葬品として銅鏡を入れることと副葬品として銅鏡を入れさせないこと。どちらも死者を保護するのが目的である。ただ問題を考慮する角度がおなじでないので、ふたつが異なるものになってしまったのだ。