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 火薬の発明に伴って、火銃(金属射撃火器)や火炮(火薬などによって弾丸を発する武器)などが出現し、それは巫術の領域でも運用されることになった。火器が鬼を制圧する原理に関して、紀昀はつぎのように説明している。

「余の郷里(河北献県)産の棗(なつめ)は、北は車に載せて運び、京師(都)に供し、南は水路を使って各省に運び、売った。地元の人はそれを家業にしていた。

なつめが熟していないとき、もっとも恐れるのは霧である。霧の湿潤のため、やせてしわだらけになる。すなわちなつめは皮と核(み)だけになる。

毎度霧が発生するとき、あるいは上手の風が積まれた柴草を燃やすとき、濃い霧は散らされてしまう。あるいは銃で迎え撃って鳥を排すとき、(霧が)散るのはもっと速くなる。けだし陽気がさかんであれば陰霾(いんばい)は消える[陰霾は暗い天候のこと。暗鬱な心理状態を指すことも。霾(つちふる)が黄砂と同一視されることもある]。

およそ妖物はみな火器を畏れる。史丈(帝王の言行録の編集を担当する官吏)松涛は言う、山あいの山中に黄雲が激しく起こり、風雹が作物に害を与える。巨炮で迎え撃つと、車輪のごとき大きさのカエルが落ちてくる。

余が福建の学校で指導したとき、山魈、あるいは夜行が屋根の瓦の上でギーギー声を出していた。轅門(えんもん)が炮を鳴らすと、あわてて逃げ出し、また静まり返る。鬼もまた火器を畏れるのだ。

余が烏魯木斉(ウルムチ)にいたとき、銃で厲鬼を撃つと、ふたたび集まってくることはなかった。妖鬼はみな陰類である」。

 『日書』は、たいまつ駆雲法とたいまつ避雷法、たいまつ逐鬼法をおなじようなものとして扱っているように見える。紀昀は北方人が煙と火、鳥銃(火縄銃)を用い、霧を駆逐する方法と火器によって鬼を駆逐する方法を提起し、論じている。しかし『日書』の作者は何気なく例として出しているのかもしれないが、紀昀は、現実的で信頼できる経験を基礎とするのは間違っていることを論証している。[ここでは経験主義的な考え方を、自然主義的な考え方と比較して述べている]

 この短文は個人の経歴と経験について書き、理論上の結論を導き出している。つまり巫術論の理論と実例の結合の規範である。中国の古代の巫師の多くは無学無知である。彼らの経験と理論は巫術意識の豊かな文人によって総括され、まとめられなければならないだろう。