(4)キョンシーを焼く 

古代において巫術を実践するとき、火は重要な役目を持っていた。すなわち巫師と「妖人」はときに焚焼(火あぶり)されることがあった。中原地区の華夏民族(漢族)は火葬を嫌悪してきた。しかしそのためかえってなかなか殺されない術士に懲罰を与えるためこの方法が用いられた。焚焼(火あぶり)を用いるのは、妖人を徹底的に消滅させるためだと人々は信じた。彼らが散布する毒素や遺留する汚濊までをも徹底的に除去しようとしたのである。巫を火あぶりにする現象が商代まで頻繁に見られたかどうかははっきりしない。

 周代に至ると、求雨(雨乞い)がうまくいかなかった巫(ふおう)が火刑に処せられたり、野曝しの懲罰を受けたりした。

 漢武帝のとき江充と「胡巫」が戻太子を陥れようとしたとして、戻太子は江充を殺し、胡巫は上林苑で焼き殺した。

 北魏の法律には明文化された規律があった。「蠱毒をなす者は男女とも斬られ、その家は焼かれる」。

 宋文帝のとき、女巫厳道育と東暘公主婢女鸚鵡はみだりに巫蠱を実施し、事が発覚したあと、ふたりは鞭打ちで殺され、そのあと屍は焼かれ、灰となった。この特殊な懲罰方式はもともと巫術の手段だった。ある人はこれを宗教清潔儀式と呼んだ。犠牲の血のように、糞穢も巫師が常用した霊物であり、民衆はこうしたものを巫師を攻撃するものとして用いた。火は巫師になかで駆邪の利器となっていた。また彼らが命を倒すときの陥穽にもなった。


 清代には「僵尸(キョンシー)を焼く」という習俗があった。ときたま大きな旱があると、人によっては某家の祖先の墓の中の僵尸が祟ったと噂し、大衆が集まって墳墓を掘り、柩を壊し、遺体を焼いて雨乞いをした。こうした習俗があるのは、火の駆邪という観念があったからである。