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 爆竹駆鬼法が春節に欠かせなくなったのは、晋代以降のことと思われる。三国時代の春節には爆竹がおこなわれなかったが、「門の前で煙火を作る」ことはおこなわれていた。それと爆竹駆鬼法はかなり近いといえるだろう。

 『荊楚歳時記』に言う、南朝人は正月一日の習慣で「鶏鳴とともに起き、まず庭の前で爆竹を鳴らし、山臊悪鬼を退ける」。これよりあと、爆竹を鳴らしながら、古い年を送り、新しい年を迎えるのが中国人の伝統となっていった。


 范成大『臘月村田楽府十首』に述べるように、宋代呉中民間の習慣では臘月二十五日夜間に爆竹を鳴らす。「ほかの郡もおなじだが、とくに呉中は盛んだった。悪鬼はこの音を畏れた。いにしえは(新しい)歳の朝に、呉では二十五日とした」。

 呉自牧『夢梁録』巻六、南宋臨安の除夜に「禁中の爆竹がけたたましく鳴り、巷でも聞こえた」。当時各地で年節の爆竹が鳴らされたが、時間はまちまちだった。

 范成大『村田楽府十首』之五「爆竹行」は生き生きと描いていて、風俗の考証の助けになっている。たとえばつぎのごとく。

「歳朝(正月一日)の爆竹は昔より伝わるもの。呉儂(呉の地)の政(まつりごと)は五日前から(爆竹を)鳴らしている。食べ残しの豆粥から塵を取り払い、竹を五尺ほど伐って薪の中に入れて熱する。節の間に汗が流れ、火力がとおる。丈夫な下僕さえついに逃げ出す。こどもは弾けてくるものを避けて立ち、地面には雷が落ちたような音が響く。一、二発の音で(パンパン鳴り出すと)百鬼が驚きあわてふためき、三、四発の音で鬼の巣が傾く。十発の音で神道(神道穴)はやすらかになり、八方上下、平穏が訪れる。床の下から焦げた頭(爆竹)を拾うと、なおもそれによって悪鬼が駆逐される。火薬のなくなった袋に酒杯が見つかる。昼はぞんぶんに遊び、夜は熟睡する」

 詩からわかることは、南宋の時代になっても、呉中には非常に古い竹筒を焼く方法があったということである。すなわち五尺ほどの竹筒を火でこんがりと焼く。竹筒が「汗を流す」のを待って、壮健なる男が「当階撃地」を取り出す。その使用方式は現在の「捽炮」(かんしゃくだま)とよく似ている。


 火薬炮仗(爆竹のこと)が出現したあと、爆竹の形式は大きく変化した。素朴な焼竹爆裂法は徹底的に淘汰された。爆竹の品種は次第に多くなり、爆竹の音の大きさも次第に増し、お正月気分は震天動地の爆竹の音でいっそう濃くなっていくのだった。たとえば清代、「花火と爆竹を作ることにかけては、京師の工芸の右に出るものはなかった(……)さまざまなものが複雑にからみあい、それらをすべて挙げることはできない。

 除夜、亥子の刻、「爆竹の音は撃浪轟雷(波が砕けるような、雷が轟くかのようなすさまじい音)のごとし。朝野に(宮廷の中にも外にも)広がり、夜通しで、とどまることを知らない」。千年以上もの間、爆竹を鳴らしながら古い年を送り、新しい年を迎えてきた。そのスタイルはそのまま巨大化した社会のなかでも生き続けてきた。それは無数の傷ついた魂をいやしてきたであろうし、絶望の谷底におちてしまいそうな下層の民衆に希望を与えてきた。それは秦代以前の年末の臘祭の一張一弛(いっちょういっし)や宣泄郁悶(せんせついくもん)の精神である。

[一張一弛は、周代における文王や武王の時代の厳しさと緩やかさを組み合わせた国家の治理法のこと。宣泄郁悶は、憂いを(年越しの行事を体験することで)晴らすこと。一種のカタルシス]


 時代を経るにしたがい、節日に爆竹を鳴らすことにおける巫術的意味合いは薄らいでいった。除夜や元旦に爆竹を鳴らすように、妻を娶ったとき、子が産まれたとき、出世したとき、財を成したときに爆竹を鳴らした。しかし爆竹駆鬼法は個別の領域では変質しているとはいえ、この種の巫術がすべて変質したと考えるべきではない。

 明代の蘇州のもっとも盛り上がった集会は「五方聖賢会」である。これは五行の神あるいは五湖の神を祭祀する大型祭典である。祭典の中で使った火器は、4人の屈強な男の力が必要な大型の爆仗(爆竹)だった。このような大型爆竹に火を着けて鳴らすのは、たんなる娯楽ではなかったということだ。

 清代の文人は爆竹駆鬼法術を深く信じて疑わなかっただけでなく、陰陽学を運用してその原理を解釈しようとした。紀昀『閲微草堂筆記』巻二十三に言う、某士人は僧舎に部屋を借りていたが、夜、灯下を凝視すると、壁に掛けられた天女散花図の天女が突然話しかけてきた。士人は妖怪が惑わそうとしているのだと思い、その画幅を火炉に投げ込んだ。

 それ以来夜になるとしくしくと泣く声が聞こえるようになった。士人は言った。「妖の余気は尽くさざるか。また集まって形を成すのだろう。我に陽剛のものを持たせて陰邪を破除せしめよ」。

 士人は十数串の爆竹を買い、撃発装置(信管のようなもの)をつなげると、悲鳴が起こった。しかしすぐに点火すると、爆音が響き、「雷が落ちたかのように窓や扉が震えた」。このとき以来妖怪の声は聞こえなくなった。

紀昀は士人の口を通して、爆竹が陽剛に属するものであるゆえ陰邪を破除することができたという見方を示している。これはつまり「陽気盛んであれば陰霾(ばい)を消す」「およそ妖物はみな火器を畏れる」という見方と一致する。[陽剛の反対は陰柔。日常的に男子の精核、気質を表すのに用いられる。剛強]