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 爆竹法も含まれる鼓噪法術は、人が大勢集まり、多くの噪音を混ぜ合わせ、その圧力で鬼怪をひるませ、撃退する法術である。鼓噪法術は、爆竹が発明されるはるか以前に出現していた。

 『夏書』に言う、夏人は日食が起きると太鼓を叩き、太陽を救出しようと狂奔する。『夏書』は「噪」という言葉に言及していないが、救日しようとする者は、狂奔すると同時に大きな声で叫んだはずである。

 春秋時代、「伐鼓于社」は救日の主要な方法であったはずである。[伐鼓と言っても太鼓を伐るわけではない。戦争を開始するときのように太鼓を打ち鳴らし、声を上げるのだろう。社は土地神を祭る場所のこと]

 近代の多くの村で、人々は太陽が天狗(天の犬)に喰われるのを目撃した・村の人たちはみないっせいに盆を叩き、缶を打ちながら声を張り上げて天狗を追い払おうとした。この鼓噪救日の習慣は夏代以来の伝統である。


 『荘子』の逸文にも「今、疫病を駆逐し、魅鬼を追い出すのに太鼓を叩き、噪を呼ぶ」とある。戦国時代、逐疫活動をするとき鼓噪法術を使ったことを反映している。

 秦簡『日書』「詰篇」はたびたび鼓噪法術に言及している。無敵の鬼――丘鬼――は宮廷を支配し、怪をなす。そこで荒れた丘の土から土の人、土の犬を作り出し、建物の壁の上に五歩ずつの間隔で土人、土犬を置いていった。それらは宮廷を取り囲むように置かれた。

 丘鬼がふたたびやってきたとき、灰土を放り投げ、箕(み)を叩き、大きな声で叫んだ。すると丘鬼は遁走した。

 「詰篇」はまた言う。室内に見えないが太鼓があり、しばしば太鼓の音が聞こえる。これはつまり響きのなかに鬼鼓があるということだ。(鬼鼓は)人が普段使用している太鼓から叩きはじめ、なんとなく敵対的である。鬼鼓の音は自然に消えていく。

 外部の人、鳥や獣、六畜が宮廷内に入って勝手に走り回る。私情を持った天神が人間の世界に降りてきて愛情をかける。童男童女を宮廷に入れさせると、彼ら(童男童女)は太鼓を叩き、鈴を鳴らし、叫びはじめる。しかし天神は二度とやってこない。


 秦代以降、鼓噪駆鬼法は広まる一方だった。後漢の大儺礼には呪詛があり、舞踏があり、「嚾呼」(かんこ)もあった。すなわち百二十人以上がいっせいに大きな声で叫ぶのである。

 唐代には鼓噪によって鬼兵に抵抗する習俗が残っていた。伝説によれば唐玄宗開元二十三年(735年)六月、洛陽の民衆は「鬼兵に驚き、みな逃げて行方がわからなくなるか、自ら突っ込んで負傷した。鬼兵ははじめ洛水の南の坊市で騒ぎ立て、ようやく洛水の北に至った。それらが過ぎたとき、空中に数千万の騎甲兵が現れ、人馬の音がざわざわと聞こえたが、にわかに消えていった」。

 鬼兵は夜になると天空を過ぎていった。毎晩二度から三度現れた。唐玄宗は非常に恐れ、「巫祝に禳厭(災いをもたらす邪悪なものを駆除する)をさせ、毎晩洛水の浜辺で飲食の場を設けさせた」。

 一部の地域の民衆は洛陽の人々と違い、玄宗のように肝っ玉が小さいわけでもなく、伝統的な団体の鼓噪法によって鬼兵を攻めた。天宝年間、晋陽一帯に鬼兵がやってきたという噂が立った。「民衆は銅や鉄を叩いてこれ(鬼兵)を畏れさせた」。この場面やムードは救日礼と酷似していた。