(5)
南宋程大昌『演繁録』に「臘鼓」の条の記載がある。宋代「湖州(浙江省)土俗、歳十二月、人家多く鼓を設け、これを乱れ打つ。昼夜止まらず、来る年の正月半ばに泊まる。そのもととなるところを問うに、知らざるなりと。ただし代々これを伝え、打耗(だこう)[打耗とは、臘月、太鼓を打って鬼を駆逐する習俗のこと]と呼ぶと。打耗とは警告を発して鬼の祟りを駆逐することである」。
北宋南宋の時期、京師汴梁と臨安城内では臘月二十四日の夜「床底に火を灯す」習俗があった。当時はこれを照虚耗と呼んだ。
[虚耗は古代中国民間の鬼怪の名。赤い袍服を着て、牛の鼻を持ち、脚の一本は鞋をはき地面についているが、もう一本は腰に掛かっている。また腰に鉄の扇が挿してある。虚耗は禍をもたらすと信じられていた]
湖州人の打耗活動は照虚耗の別の形式であった可能性が高い。照虚耗は灯火を使用するが、打耗は昼夜打つ太鼓を手段とする。ほとんどの湖州人は「耗」がさらに大きくなることを理解している。太鼓を乱れ打って駆逐しようとは思わない。
方以智『物理小識』巻十二は言った。音が幽霊を感動させることがある。優美で調和のとれた音楽は「異類をも感じさせる」。耳が震えて聞こえなくなるほどの鐘の音は妖魔を降伏させることができる。「押し寄せる音に叩き潰されて、鬼もすっかり従順になってしまう」。
清代の少なからぬ文人が当時の鼓噪駆妖活動について詳細に描写している。民俗や民間信仰の角度から言えば、荒唐無稽な内容でも事実の作と自称する。
李王逋(りおうほ)は『蚓庵琑語』の中で言う。
「順治丁酉年の七月から八月にかけて、摂生魂とよばれる妖人が現れた。白昼、妖人に姓名を呼ばれると、魂は辺地に連れていかれて売られるという。一時は蘇州、常州の交易の市場で、口の代わりに筆でおこなう者も現れた[いわゆる自動書記か。私(訳者)は台湾などで見たことがある]。事が露になって極刑に処せられた者もいた。
やがて妖魔(妖人)は、鎮江を起点に、北から南へと伝播したという噂が広がった。はたして妖魔は夜やってきた。
まず、あやしげな風が吹いて、なまぐさい空気が漂った。屋根の瓦がみなコトコトと音をたてた。はじめ数斗の甕のように見えたが、いつのまにか黒鬼に変わっていた。それは屋根の高さほどの大きさがあった。タヌキのように見えたが、くちばしが一尺余りもあった。両目が星のように輝いていた。あるいは禽獣犬馬に属し、変幻自在だった。
人が臥室(寝室)に入ると、体を圧迫され、死に至ることもあった。あるいは爪で傷つけられ、血が滴り落ち、数日は病におびえた。人は刀剣でこれを切り、家族が傷を受けるのを防いだ。妖魔は銅鑼や太鼓の音、大衆の騒がしい声をおそれた。正月まで、人々は毎晩金伐鼓を鳴らし、銅器や木板を叩き、声を張り上げた」。
李王逋によると、明代の文献を細かくしらべると、成化(1465―1487)、嘉靖(1522―1566)、隆慶(1567―1572)、万暦(1573―1620)年間にこの種の怪異現象が出現したという。
李氏本人は文献を調べ始めたものの、妖魔の存在を信じていなかったという。ただある夜、「鏡のような眼を持つ妖魔を目撃した」ことにより、信じるようになった。「その眼から火光が出ていて、炯々として人を射た」。
李氏の言う妖魔と唐代の鬼兵はよく似ている。おそらく奇異な天象や怪鳥の群れなどから生まれる幻覚なのだろう。この種の「妖邪」が大規模に襲来する頃には、巫師らは対抗策もなく、民衆は自分たちの理解をもとに、組織を作って、太鼓や銅鑼を鳴らし、「これ(妖邪)を駆逐するために声を張り上げた」のである。