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 袁枚(えんばい)は浙江呉江一帯の駆鱟(くご)の習俗について述べている[鱟(ご)はカブトガニのこと]。鱟は長い甲殻をつけた魚であり、形状は鱉(スッポン)に似る。[甲殻をつけた魚というのは奇妙な言い方だが、節足動物で、甲殻類である。中国では鱉魚と呼ぶことがある。鱉(スッポン)もまた鱉魚と呼ばれる]

 袁枚の鱟(カブトガニ)は鱟精のことである。

「呉興の卞(べん)山に白鱟洞があった。毎年春と夏の間に(鱟精が)連なって空中を漂うさまが見られた。それが空中を通り過ぎると、その下の蚕がいなくなった。ゆえに養蚕のときはもっとも忌むべきものとされる」。

 鱟精は手強かったが、致命的な弱点があった。それは銅鑼や太鼓の音を畏れることだった。

 乾隆年間、呉興の范某は城隍廟で神の啓示を得た。玄衣真人なる者が現れ、鱟を駆逐するので、洞の入り口で硫黄と柴草を準備して待つようにというのだ。約束の日に范某は数十人を集めて洞の入口で待った。ほどなく一丈の長さのオオコウモリが大小のコウモリの群れを連れて飛来してきた。范某はこれが玄衣真人であると認識した。のちに洞から白い軍団が飛び出したとき、コウモリの群れは彼らを取り囲んで撲殺した。このとき村人たちは「集団で銅鑼や太鼓を叩き、爆竹を鳴らして助けた」。コウモリは鱟精がいなくなるまで殺した。

 呉興の村人は同時に煙火を起こし、爆竹を鳴らし、銅鑼と太鼓を叩いた。妖魔を駆逐するにはこれがもっとも効果が大きいと考えたからである。しかし小説を読むと、噪音駆妖法はすでに巫術活動の中心ではなくなり、たんなる引き立て役になっていることがわかる。秦代以前の鼓噪救日、漢代の鼓噪駆疫、唐代の鼓噪駆鬼兵、宋代の鼓噪打耗は、どれもいくらか懐疑の目で見られていたふしがある。袁枚に至って、大量のコウモリが妖邪を攻撃するのを助けるのだが、「鬼怪は銅鑼と太鼓を畏れる」という表現自体に、十分な自信が感じられない。三千年以上も演じられてきた鼓噪駆鬼のドタバタ劇は、そのフィナーレが近づいているようである。