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 地下にはいくばくかの妖怪がいると認定し、巫術を信仰する者は法術を重視し、墓の中の死者の安全を保障する。周代の天子が葬られる前、打鬼専門家の方相氏は長戈を手に取って墓穴に至り、戈を振り回し、四処に突き刺した。目的は「方良」という妖怪を墓から駆除することである。この「方良」とは、『国語』に言う木石の怪「蛧蜽」(もうりょう)、あるいは「罔象(もうぞう)」のことである。

 漢代の人は地下の妖怪を駆逐するために、つねに墓中画に方相氏が打鬼をする場面を描いた。この類の画像が出土した漢画像石に含まれる割合は小さくない。漢代の人は「罔象は亡者の肝脳[肝臓と脳。身体あるいは生命を指す]を好んで食べる」と信じていた。彼らは方相氏を用いて死者のために駆鬼(鬼やらい)をすると同時に、柏樹、石虎あるいは画虎を組み合わせて罔象に対処する。

 漢代の伝説によると、秦穆公のとき陳という姓の小役人が羊の形をした怪物を掘り出したので、穆公に献上しようと考えた。しかし途中で会った二人の童子が指摘した。

「これは(うん)という化け物です。いつもは地中にいて死人の脳を食べています。二本の柏樹の枝で拘束してその頭をつぶす必要があります。それでやっと殺すことができます」。

 このとき以来人々は墓の横に柏樹を植えるようになった。

 漢代の人は「虎、陽物、百獣の長である。それは(鬼を)捉えて噛み殺し、鬼魅を食らう」。罔象は虎と柏樹を畏れる。それゆえ人は墓の前に「虎と柏を立てる」。漢代画像石のなかには白虎の頭がたくさん並んでいる。これらの画虎と墓の傍らの石虎の巫術的な意味合いは同じと言えるだろう。


 墓の中の平安を保証するため、術士は数多くの奇怪な形状の鎮墓獣を作ってきた。秦代以前の楚人は巫鬼を信じていた。葬る際の鎮墓獣に関しては、楚国がもっとも盛んだった。湖北江陵雨台山、江陵馬山一号楚墓、包山楚墓、江陵望山、沙塚楚墓、湖南長沙楚墓、河南長台関楚墓、どれからも鎮墓獣が出土している。