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陰曹地府(人が死後行く場所。地府とも)に提出する文書を記す葬俗(葬送の習俗)は漢代にはじまり、さかんになった。長沙馬王堆3号漢墓から出土した木簡にはつぎのような文が記されていた。
「十二年二月乙巳朔戊辰、家丞奮移主蔵郎中、移蔵物一編、書到先選具奏主蔵君」。
木簡の背面に侍従、車騎、副葬の食品、器物、衣物(衣服と手袋や帽子等)などが記されている。主蔵郎中と主蔵君はどちらも地下(冥界)の官吏である。
文の内容は、つぎのとおり。漢文帝十二年二月(一日を乙巳とする)戊辰日、死者の家吏「奮」が陰間の「主蔵郎中」に書信を送る。副葬品とともに明細書も送られる。書信が届いたあと、詳しい状況が「主蔵君」に報告される。
江陵鳳凰山漢墓出土の二つの文書もよく似ている。一つはつぎのとおり。
「(文帝)十三年五月庚辰江陵丞は地下丞に敢告する(自分の罪業を告白する)。(江陵の)市陽五大夫〇少言と大奴良ら二十八人、大婢益ら十八人、軺車(ようしゃ)二乗、牛車一両、駟馬(しば)四頭、騮馬(りゅうば)二頭、騎馬四頭などを令吏(文書を管理する役人)は従事させることができる。敢告主」。[〇は上部が隊、下部が火の文字。遂、隧とも][軺車(ようしゃ)は古代の小さい車。駟馬(しば)は四頭立ての馬車の四頭の馬。騮馬(りゅうば)は、たてがみが黒く、尾も黒い、赤い馬のこと][敢告主は秦代の竹簡によく見られる文章形式で、文が結束したことを示す]
もうひとつの文はつぎのとおり。
「(景帝)四年後九月辛亥、平里五大夫倀(張)偃、地下主に敢告する。偃、衣器物、すなわち祭具器物を各律令に基づいて処理をする」
地下丞と地下主の関係は、主蔵郎中と主蔵君の関係に似ている。どちらも人間世界の君臣関係を模倣しているのだ。「令吏(役人)は処理することができる」「各令(役人)は律令に基づいて処理できる」とは、地下主に対し、法律にもとづく処理を考えながら、部下が副葬品を細かく点検するよう地下主に請求するということである。埋葬される人から見れば、細かい検査を経て、妖邪が死者の財産を勝手に侵害するなどできるはずがないのである。そして地下主はそのことを理解しているはずである。このように、これらは考古学者から「告地策」文書と呼ばれる。実際は、妖邪を圧伏する鎮墓の文書と呼ばれている。[告地策とは、後漢時代に現れた葬送文書。その格式は秦漢時代の官府の上行文書あるいは平行文書とほぼ同じ。ただ文書が送られる相手は地下世界の官吏]