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告地策に似たものとして、ほかに厭勝文書の「買地券」がある。漢代の告地策はじつは買地券の前身である。両種の文書の違いは、後者が「買地」に重きを置いていることである。買地券は、死者のためにすでに若干のお金が出ていて、地神の手のうちから一定の土地を買うことができる。孫行者(孫悟空)が如意棒を用いて、後ずさりしながら、鬼魅が入れないサークルを描くように、買地券を用いて、つまり虚構の金銭で、死者のために安全区を設立することができる。
武漢東呉墓出土の呉景帝永安五年(262年)「彭盧買地鉛券」に記す、死者彭盧のために「丘父土王」から「買地縦広三千歩(縦横三千歩の土地を買った)」。費用は一万五千で、東王公と西王母が証人となった。しかし神々は、この協定に違反することが許されていなかった。
武漢南朝墓出土の斉永明三年(485年)、劉覬(りゅうき)買地券はレンガに刻んだ文書で、全文四百余字である。そのなかにこう書かれている。
「封域の内、東極甲乙、南極丙丁、西極庚申、北極壬癸、上極青雲、下極黄泉。これより土神地を買い、雇い賃八万万九千九百九十九文、すでに払い終わっている。日月を証しとし、星宿を明として[日月星宿を証明(あかし)として]即日葬送をおこなう。丘墓の神、地下□長、[不鮮明]。生人は用心深くなければいけない。明確に遂行しなければいけない。泰(太)清玄元、上三天炁(気)極大神、太上老君陛下の青詔書律令」
この買地券はのちに符籙が付せられるようになるが、整った文書、霊符はあきらかに道士の「作品」である。
買地券を副葬品とする習俗は魏晋代から明清の時期までつづいた。買地券はレンガや鉛板に刻まれたほか、玉板、陶柱、石板、木板、鉄板に刻まれた。
宋人周密は言う。「今、墓を造るのに買地券が必要である。それは梓木から作り、朱書で記される。九万九千九百九十九文のお金を用いて某地を買うという。この村の巫の習俗はこのように笑止なるものである。
元遺山『続夷堅志』によると、曲暘県燕川の青陽壩[壩は山間の小さな平地のこと]に墓を造るために鉄券を得た人がいた。鉄券にはつぎのような金字が刻まれていた。
「忠臣王処存のための勅葬[皇帝の命によって行われる葬送]において賜銭九万九千九百九十九實九十九文なり。唐哀宗のときに決められて以来、久しくつづく(ならわしである)」。
時代の限界もあり、周密は買地券が魏晋の頃にはすでにあったことを知らなかった。専門家によると、五代から宋朝まで、買地券は一行順書、一行倒書(さかさ文字)など特殊な書式で書写された。地下の鬼怪の読み方は常人と異なっていたのである。