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秦漢の時期、終葵と刀、剣、斧、杖はどれも武器だった。馬融は『広成頌』に、古代勇士が「終葵を揮い、関斧を揚げる」情景を描いている。この負の利器は鬼怪に対してつねに用いられる。睡虎地秦簡『日書』「詰篇」には二か所、錐で鬼を撃退する場面が出てくる。
一つは、人が哀鬼にまとわりつかれ、「棘の錐、桃の秉(柄)でその心を敲き、すなわち(鬼は)来ない」。桃木の柄の上の棘椎で哀鬼を駆逐する。
もう一つは、「会虫」は家人を筋違いにさせる。「居室の西南の角を鉄錐で押す(椯)と、かならず虫の首に的中する。掘ってこれ(虫)を埋め、取り除く」。文中の椯は段であり、打撃の意味がある。
後漢の帛書『五十二病方』にも鉄錐で鬼を撃退する治病法術が記されている。陰嚢が大きくはれて小便がしづらくなったのを治すには、選んだ月の十六日の日の出のとき、患者を東方に面と向かわせる。巫医はまず三度禹歩をおこない、「月と日相当、日と月相当」と三遍唱える。そして父母の病鬼を威嚇する呪文を唱え、それが終わると、鉄錐で象徴的に地面を十四回撃つ(攻撃する)。『道蔵』所収の『太上秘法鎮宅霊符』中に「厭疫気百雑鬼」という霊符がある。[図参照]霊符に「椎」という文字が二つ書かれている。これは「錐」のかわりに用いられているのだろう。錐で鬼を撃つという意味である。
『太上秘法』は称する、この書は漢文帝の頃の術士劉進平が伝えたものであると。これから推測するに、書中に載る霊符は漢代か、その少しあとに書かれたものだろう。顧炎武『日知録』は「終葵」の一節を示し、「古人は椎でもって鬼を駆逐する。大儺のためである」。のちに「終葵」となるが、鬼を駆逐する武器がかわり、人名や神名もかわったということである。惜しむらくは当時顧氏は「椎でもって鬼を駆逐した」という実例を見つけることはできなかった。秦漢の文書が大量に出土するにしたがい、錐で鬼を駆逐するのが古代では盛んであったことが確認されるようになった。顧氏は鐘道の起源について確信を深めたようだ。[顧炎武(1613-1682)は経世致用、明道救世思想を唱えた思想家]