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 唐代以前、少なからぬ人が鍾葵あるいは鍾馗から名前を取った。このように名を取るのは、刺鬼武器である終葵(しゅうき)のように鬼魅を畏れさせ、彼(彼女)が侵害を受けず、一生平安に過ごせることを願ったのである。[終葵に「さいづち」という読みがあてられることがあるが、鬼を刺すことから、先の尖った武器と考えられる。あるいは利錐と解釈される。利錐はもともと農具で、収穫に使われたとすると、一種の剣状の農具で、武器としても使えたのだろう]

 顧炎武によると、唐代以前にすでに楊鍾葵、丘鍾葵、李鍾葵、慕容鍾葵、喬鍾葵、宮鍾葵、段鍾葵といった人名があったことが確認できるという。

 宋仁宗皇祐年間、金陵上元県で劉宋の征西将軍宗(そうこく)の母鄭夫人の墓が見つかった。この墓の墓碑銘には「(こく)には鍾馗という名の妹があった」と記されていた。女性にも鍾馗の名がつけられたのである。[〇は上が穀、下が心]

 忍耐強く探せば、つぎの三名の名前に行きつく。北魏孝文帝時代の大臣堯暄(ぎょうせん)の本名は鍾葵であり、字(あざな)は辟邪だった。同時期の大臣だった張白沢も字は鍾葵である。その少しあとの大臣于勁(うけい)もまた字を鍾葵としていた。

 古代の名と字は密接な関係があった。名が鍾葵で字が避邪(辟邪)という組み合わせなら、鍾葵の名が辟邪の物(魔除け)であることを表明していた。鍾葵と「勁」の組み合わせなら、それが強くて危害が加えられることはないという特徴を持っていた。鍾葵と伝説の鬼神獣白沢の組み合わせなら、鬼魅を駆逐するのが鍾葵の本領であることを表していた。これら三人の人名は、どれも名字(名と字)中の鍾葵が鬼を攻撃する錐である「終葵」から取られたことを説明している。同時に利錐で鬼を打つ習俗は、南北朝の時期、ほとんど変化しなかったことを表していた。[鍾葵と終葵は同音(zhong kui)]


 唐代に至ると、利錐の意味を持つ終葵、鍾葵、鍾馗は最終的に姓・鍾、名・馗の捉鬼大神となった。鍾馗捉鬼図は(壁や門に)掛けられ、貼られ、それ自体が新しい辟邪(魔除け)法となった。

 北宋の皇宮が蔵していた一軸の呉道子画の鍾馗図には唐人の題記があった。これには鍾馗がいかに鬼を捉えたかという伝説が詳細に述べられている。開元年間、唐玄宗は驪山に行き、軍事演習を主催したが、皇宮に戻ってすぐ、瘧疾を発してしまった。一か月余り、巫医は全力を尽くして治療に当たったが、一向によくならなかった。ある夜、玄宗は宮中に二匹の鬼がいる夢を見た。小鬼が楊貴妃の紫香袋と玄宗の玉笛を盗んだ。そこに青い袍服を着た、腕をあらわにした、革靴に足を突っ込んだ大鬼が現れ、小鬼を食べてしまった。玄宗は大鬼に向かって名は何という、とたずねた。大鬼は「臣の姓は鍾、名は馗と申します。かつて考武の試験を受けましたが、受かることはありませんでした。落ちたとはいえ、陛下のために妖孽(ようげつ)を駆除しようと願います」と言った。

 夢から醒めると、玄宗の病はよくなっていた。記念にとどめようと、玄宗は画工の呉道子を招聘し、夢中で見たものを鍾馗図として描くよう命じた。呉道子は画聖の名に恥じず、すぐさま生き生きとした鍾馗を描き出した。唐玄宗は大いに喜び、百金を下賜した。そして言った。


霊祇応夢、厥疾全廖。(神霊夢に応じ、厥病も完治する)

烈士除妖、実須称奨。(烈士は妖魔を除く。じつに称賛すべき)

因図異状、頒顕有司。(そのさまが尋常でないため、それを分かち与えよ)

歳暮駆除、可宜遍識、以袪邪魅、謙静妖気。(年の暮の駆除について広く知られるべきだろう。邪悪を取り除き、妖気を静めなければならない)

告天下、悉令知委 (天下に告げよ。ことごとく知らしめよ)


 以上の文の意味は、つぎのとおり。鍾馗図を各官吏に配布し、鬼の駆逐に用いるよう命じる。同時に天下に布告する、すべての人は鍾馗の威力を知るべしと。


 この題記は唐朝皇帝が臣下に鍾馗図を分け与えたことに言及している。唐人は歳末に鍾馗図などを掛ける風習があった。この題記の内容は当時の風俗を反映しているのである。

 唐代詩人張説(ちょうえつ)の『謝賜鍾馗および暦日表』という一文があり、その中で言う。「臣某は言う、中使[宮中が派遣する使者。多くは宦官]至る、奉宣聖旨[皇帝の命令あるいは指示を奉る]、臣に鍾馗の画一軸および新暦日一軸を賜う。(……)邪をなくす絵の神像によって、疫鬼の群れを取り除く」。劉禹錫が書いた『為淮南杜相公謝賜鍾馗暦日表』『為李中丞謝賜鍾馗暦日表』も同様である。

最初の表に言う、「臣某は言う、高品(名士)某乙が至る。奉宣聖旨[皇帝の命令あるいは指示を奉る]、臣に鍾馗の画一軸、新暦日一軸賜う。星紀[十二星次の一つ。二十八宿の斗宿と牛宿に当たる]が戻り、年の瀬になり、突如輝かしい恩寵を賜ることになる。春が来たかのようである。臣某は感謝し、神威を画いた図でもって疫鬼を駆除する」。

 まさに後漢の儺礼が結束したあと、葦戟、桃杖を公卿や将軍に賜ったように、疫鬼の群れを駆除する鍾馗の図を分配するのは、皇帝が大臣に対して関心を持ち、守っていることを表していた。それゆえ図像を受け取った人は感謝の意を表す必要があった。文才のある人は謝表を代筆することもあった。すでに述べたように杜相公、李中丞が劉禹錫に謝表の選定と書写を頼んだのは一例である。