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 大臣や貴族の上層社会において鍾馗図は疫鬼を駆逐する役目を負っていたが、民間でもおなじことが行われた。唐代の民間に流行した鍾馗逐鬼活動とは、鍾馗崇拝と伝統的な儺礼とが結合した巫術の新しい形式だった。年末の打鬼儀式において、ある人は鍾馗に扮し、狂ったように歌い、力強く舞い、疫鬼を駆逐した。

 敦煌文書唐写本のなかに『除夕鍾馗駆儺文』があり、それに駆疫活動をする鍾馗に扮した演者がいて、彼はつぎの歌詞の歌をうたう。

毎年自ら十万の大軍を率いて、ヒグマの硬い爪、鋼の頭、銀の額で、全身豹皮を着て、朱砂で身を赤く染める。そしてわれは鍾馗である、江遊浪鬼を捉えようと称す」。

 研究者らは、さまざまな比較を通して、ここに出てくる鍾馗は伝統的な儺礼中の方相氏に相当すると結論づけている。敦煌文献にも同様の描写がある。

「軒轅(黄帝)の昔より、駆儺によって、鍾馗と白沢(古代の瑞獣)が仙居(仙境)を統率している」

 実際のところ唐代以前は、鍾馗が各神仙を統率するという観念がなかった。鍾馗捉鬼神話が広く流行したあと、人の心の中に占める鍾馗の地位はますます高くなった。鍾馗は駆儺活動のリーダー格と目され、黄帝や白沢と並び称された。


 五代北宋南宋の時代、鍾馗駆鬼の習俗はそのままつづいてきた。五代の時期、銭倧が後を継いだばかりの呉越国で政変が起きた。この政変は「鍾馗撃鬼図」が誘発したものだった。新呉越王の銭倧と大将の胡進思は互いを疑い、忌み嫌った。その溝は日増しに深まっていった。

 銭倧が位を継いだ年(947年)の臘月三十日、画工が鍾馗撃鬼図を献上すると、銭倧は画の上に題詩を書いた。詩のなかで銭倧は、鍾馗は鬼と同様悪人も除去しなければならないと述べた。胡進思は鍾馗図のこの題詩を見て、「倧は(おれを)殺そうとしている」と悟った。それなら機先を制するにかぎると彼は考えた。大晦日の夜、彼は宮中の兵と武器を動かし、銭倧を監禁した。また銭倧の弟倧俶(そうしゅく)を王にたてた。

 唐代と同様、宋代にも鍾馗画を賜る礼があった。北宋煕寧五年(1072年)、宋神宗は画工に鍾馗像の拓本を取り、印刷し、それを中書省と枢密院に分配するよう命じた。大晦日の夜、神宗はまた供奉官梁楷(りょうかい)を派遣し、鍾馗の像を東西府[中書省と枢密院]に賜った。

 大晦日に鍾馗像を貼るのは、宋代の民間がもっとも盛んだった。『東京夢華録』に述べられるように、汴梁城内では、毎年春節が近づくと、「市井ではみな門神、鍾馗、桃板、桃符などを刷って売った。鍾馗像(画)を掛けるのは、新年の節俗のなかでも重要なものとなった。

 鍾馗図を掛ける習俗は清代に至って変化した。唐宋の頃は大晦日にかならず掛けていたが、清代になると多くの地区で五月の一か月か端午節のとき図を掛けた。

  顧禄『清嘉録』巻五に言う、「(五月の)一か月堂中[玄関ホール]に鍾馗図を掛ける。よって邪気を遠ざける」。顧氏はまた李福の『鍾馗図詩』を引用して言う、「(鍾馗の)面構えはひどく恐ろしいが、すこぶる大胆である。ザクロの花のように赤く、菖蒲のように緑が濃い(節日らしい賑わいに満ちた)図を掛ける。君(鍾馗)の力によって妖魔を取り除いたおかげで人に害が及ばない魔除けの図である」。

 富察敦崇『燕京歳時記』に言う。「毎年端陽[午月第一午日で端午節と同じ]に市の店舗で……絵画天師、鍾馗の像……掛けてこれを売る。地位ある人々もみな争って買い、家の門にこれを貼る。よって邪悪なものを避ける」。