古代中国呪術大全第228 その他の魔よけと厭勝法 


竹 楊柳 松柏 芝麻(ゴマ) 小豆 栴檀(せんだん)の葉 蒲 蒜 虎 雄羊の角 カニ 面具 沃法 くつ投げ法 帚(ほうき)を振る 魔枕を用いる 門神を貼る 聻(ぜん)字


 各地の習俗の違いと社会風俗の絶え間ない変遷によって、古代中国の辟邪霊物(魔除けで吉祥を呼ぶもの)と厭勝法術は際立った存在になった。すでに列挙したもの以外にも、多くの植物、動物、人工的なものやその他が駆鬼辟邪に用いられてきた。そのなかから比較的影響力のあるものや、それぞれの種類の代表的な辟邪霊物、または駆鬼法術をあげ、説明を加えたい。


<竹>

 竹簡『日書』「詰篇」に言う。「はなはだしい数の鳥獣虫(ち)が部屋に入ってきても、若便で打てば、すなわち(侵入は)止む」。また言う。「人が夜寝ていると、鬼が(侵入して)人の頭をねじる。若便で打てばすなわち止む」。[豸は蛇を含む「ながむし」のこと]

 文中の「若便」は「鞭」、竹皮で作ったムチのことである。しかし「若便」を「汝糞」のことと解釈する人がいた。クソでもって鬼を駆逐するというのである。[若と汝は<ruo>(現代音)で同音。便を大小便の便と考えた]

 竹簡の文は駆邪の方法を語るとき、二人称を用いることはないので、この説は正しくない。前述のように、道士は竹の葉と桃の白皮を煮込んだ湯(スープ)を飲用した。あるいはそれで沐浴した。それによって汚濁を避けることができると考えた。こうした健康法と竹によって邪を避けるという観念は関係があると考えられた。


<楊柳>

 『歳時広記』巻五に引く唐の蘇鶚(そがく)『蘇氏演義』に言う、「正月一日、楊柳の枝を取って戸に着ける。百鬼家に入らず」。


<松柏>

 漢代の人は象(みずは)が柏を恐れるとみなしていた[罔象は水怪あるいは木石の怪]。ゆえに「墓の上に樹柏」という習俗があった。魏晋の頃には門の上に松枝を挿す風俗があった。『歳時広記』巻五に引用する董勲(とうくん)『答問礼』に言う、毎年正月一日に椒酒を飲む。飲み終わると、松枝を折って門戸に男は七枝、女は十四枝挿す。松枝を挿すのは、桃枝を挿すのによく似る。[この松柏は常盤木のこと]


<芝麻(ごま)>

 『斉民要術』巻二に引用する古巫術書『竜魚河図』に言う、除夜の四更に芝麻、小豆各十四粒を取り、家の人の頭髪に少しかけ、まとめて井戸に投げ込む。そしてふたたび呪文を念じる。これで一年中傷寒温疫[熱病や温病]にかかることはないだろう。

 また『三農紀』巻十二が言うには、芝麻の茎を部屋の中に立てると、鬼怪を駆除できる。除夜に芝麻を床席の下に敷くと邪悪を避けることができる。


<小豆>

 豆は古代の術士がつねに用いた霊物である。なかでも赤小豆は好まれて用いられた。巫術においては、赤小豆は瘟疫を避け、駆除するために、また子供に恵まれなかったり、難産であったりの災難から逃れるためである。詳細はつぎの章を参照。


<栴檀の葉>

 『風俗通義』は「獬豸(栴檀)の葉を食べる」という伝説に言及している[獬豸(かいち)は伝説中の神獸。大きいものは牛ほどあり、小さいものは羊ほど。麒麟に似ている。みっちりとした黒い毛に全身を覆われる。目はらんらんと輝き、額に角が生えている。人間と話をすることができる]。

 獬豸は一角を持つ神獣である。人間の世の中を公平に保つのが専門の仕事である。獬豸が栴檀を食べるという伝説は、栴檀の樹に神秘的な意味合いが賦与されているということである。南朝では蛟竜が栴檀の葉を怖がると言うことが広く信じられていたので、端午節では長江に粽を沈めるさい、米の詰まった竹筒を栴檀の葉でかならずふさいだ。

 『荊楚歳時記』の杜公瞻注によれば、南朝の人には栴檀の葉に五彩糸を通し、腕に着ける習慣があった。これを長命縷(る)と呼んだ。これは伝統的な長命縷のバリエーションである。ほかにも辟邪祟のために栴檀の葉を着けることがある。たとえば『歳時広記』巻二十一に引用する『陶隠居訣』に言う。「楝樹(栴檀の木)あちこちにあり、俗人は五月五日に採ってこれを着ける。ゆえに悪を避けると」。


<蒲>

 宋代の風俗に「端五(端午節)に菖蒲を刻んで子供の形、あるいは瓢箪の形を作り、これを身につけて辟邪とする」というのがある。当時多くの詩人が、この風俗を詠んだものである。

 清代の端午節の習俗は、「菖蒲を切って剣とし、蓬を切ってムチとする。桃人形とニンニクを添える。これらを寝床や門、窓に掛ける。すると鬼を駆逐することができる」というものだった。ある地区では蒲を曲げて竜形にして、五月一日より菖蒲の竜をヨモギの虎に挿してもって駆邪をする。


<蒜(にんにく)>

 蒜(にんにく)は秦代以前に辟邪(魔除け)霊物の仲間入りをしている。当時、家臣は国王に美食を献じていたが、そのとき葷(くん)すなわち生臭いものと、桃(とうれつ)[桃の木でできた箒(ほうき)]も献上した。葷にはニンニクも含まれていた。

 『太平広記』巻三二五が引用する晋代小説『甄異記』に書く。夏侯文の標準的な亡魂が生前の姿で家に戻ると、地面にニンニクの皮が堕ちていたので、すぐに家人に拾わせた(そして除去した)。人々はこのことから鬼(亡霊)がニンニクをとくに憎悪し、恐れることを知った。以来、ニンニクは端午節のとき辟邪霊物として用いられるようになった。

古代の人はとくに分かれていない一個だけのニンニク(独頭蒜)を重視した。『清嘉録』巻五に言う。清代、長江沿岸では端午の日に、分かれていないニンニクを選び、糸でできた網に入れ、吊るして飾るという習俗があった。当地の人はこれを「独嚢網蒜」(一つの網の袋に入ったニンニク)と呼んだ。これはニンニク駆邪法術の特殊な例と言えるだろう。


<虎>

 虎に関する霊物には二通りある。一つは虎の形をしたもの。もう一つは、虎の皮や骨など体の一部。漢代の人は一年中門に虎の絵を描き、石虎や虎の首の像が罔象(水怪)を鎮圧した。宋代以来、艾(よもぎ)の虎を身につけることも多かった。これらはみな前者の法術に属している。

 後者の法術はさらに影響力が大きい。漢代の人は虎皮の灰を飲み、虎爪を腕に吊るして猝然中邪[そつぜんちゅうじゃ。突然精神が異常をきたすこと。邪悪な霊の仕業と考えられる]を治療した。

 梁の陶弘景は言う、朱画符で虎骨を配る、辟邪である。虎頭骨で枕を作る、夢魔を取り除く。門に掛ければ、鬼を避けることができる。

 陳臓器は言う、虎の両脇と尾の端一寸ほどのところで乙字形の「威骨」を作ると、官吏はこれを身につけて威厳を増すことができると。

 ある方術書が言う。虎鼻を門に掛ければ、子孫は富貴になれると。

 古代の学者は琥珀に対しても独特の見方をしていた。彼らは琥珀を虎魄とみなしたのである。すなわち虎の精魄[精神魂魄]あるいは目光(まなざし)が地に落ちて変成したものであると。陳臓器、段成式、黄休復らはみなこの説について詳しく述べている。

 ある人はいわゆる「目光地に落ちる」説は荒唐無稽という。李時珍はこれに反駁する。

「目光の説というのは、人は縊死すればその魄が地に入り、これを掘れば麩炭(木炭)のごとき状態になっているということだ」。

 彼は虎の目光(まなざし)が琥珀になると信じているだけでなく、縊死者の精魄が現実にあるものに変じると信じているのだ。また後者によって前者を証明することができるという。

これにとどまらず、琥珀は「悪を避け、心を鎮める」ことができ、また「驚邪」(驚いて痙攣を起こすこと)や小児驚癇(子供の癲癇)を治すこともできる。あきらかにこれらは巫術的な観点から見たものだ。


羊角>

 牛角、羊角、鹿角をしっかり焼き(焚焼し)、虎、豹、蛇、虫を避ける方法は、晋代にはすでにかなり流行していた。この法術は巫術ではないが、いぶして鬼怪を取り除く法術が、転じて巫術となっていた。

 術士は辟邪(魔除け)のために、羊角(こようかく)、すなわち[通例は黒い]オスの羊の角を用いた。

 『太平広記』巻三二七に収録する古小説『五行記』は、蕭摩侯(しょうまこう)が焼いた羊角を用いて鬼兵を駆逐する故事を載せている。その中の「羖羊角を焼けば、妖(怪)おのずと絶つ」の一節は、古代の術士の共通の認識だったろう。羊角をしっかりと焼くと、ひどい悪臭が発せられる。それゆえこの法術は汚物駆邪法術、あるいは煙燻法術に分類される。


<兎頭>

 『歳時広記』巻五に言う。宋代には元旦にウサギの頭を掛ける風俗があったと。このウサギの頭は辟邪(魔除け)霊物である。古代の医士は難産を治療するのによくウサギの脳髄を用いた。詳しくはつぎの章を参照。


<螃蟹(かに)>

 沈括『夢渓筆談』巻二十五に言う。「関中に螃蟹(かに)はない。元豊[10781085]の頃、予(私は)、陝西で秦州の家族のことを聞き、(彼らから)千の蟹を得た。地元の人は怪物だとしてその形状を恐れた。瘧(おこり)にかかった者のいる家族は、それを門の上に掛けると、しばしば癒えた」。[秦州(現在の天水市)の螃蟹(かに)は有名で、その養殖の歴史は唐代にまで遡るという]

 沈括はからかい気味に、地元の人が蟹を知らないだけでなく、瘧鬼もまた蟹をよく知らないようだと述べている。しかし蟹を掛ける辟瘧法術を信じる人は跡を絶たず、後世まで広く見られた。辟邪霊物ができるまでの典型的な心理的メカニズムを説明しているようだ。


<面> 

 古代の追儺の儀礼では、鬼を打つ者は好例の面をかぶった。これらには「黄金の四つ目」「金剛力士」「鋼頭銀額」などがあった。どれも妖怪の凶悪な顔つきである。

 面を用いた鬼の駆除は、追儺の礼から分派した法術である。

 宋代には、元旦にこの面と兎頭など辟邪(魔除け)霊物といっしょに門に掛ける習俗があった。

小説家も「面が怪を治める」といった故事を書いている。金陵に「鬼顔」(の面)を売る商人がいた。雨が降り、お面が濡れてしまったので、彼はお面一枚を頭に載せ、両手両足に一枚ずつ着けて、火にできるかぎり近づいてあぶった。その結果、某家の娘と逢引きしようとしていた黒鯉(岩鯉)の精はひどく驚き、隠していた本当の姿を明らかにし、許しを請うた。
 

<沃法>

 秦簡[日書]「詰篇」に言う。鬼が居室に入り、鬼影があるやなしやの状態で、祟りが終わらない。この状況に到ったら、よく泡の出た粟糠の汚水を準備し、鬼がやってきたときにその頭に浴びせる。すると怪異はおのずとやむ。

 また言う。室内で眠っている人が寝床ごと落ちてしまうことがある。これは「地(ちげつ)」の怪が成せるものである。陥没したところに熱水を注ぎ込み、黄土でふさげば、この怪を征圧することができる。

 人はこれといった理由がないのに鬼からの贈り物を得ることがある。これは夭鬼の祟りである。「水でこれをよく洗うと、すなわちやむ」

 『堅瓠広集』巻四に言う。「五行をそれぞれ利用するだけでなく、水によって辟邪(魔除け)をすることができる。人が旅に出るとき、舟を漕ぐこともあれば、旅店の中で寝ることもあるだろう。そのとき鉢に清水を入れておくとよい。悶香が効かなくても大丈夫だ。キツネも水を怖がるという。水を渡ってくることはないだろう。もし疫病が蔓延しても、雷雨に遭っても、それらをなくすことができるだろう」。

 また言う、清水を妖人に向かって噴きかければ、その妖術を破ることができると。こういった法術は秦代以前の法術の変種である。


<投屨(とうく)法>

 『日書』「詰篇」は何度も脱鞋打鬼の法術に言及している。たとえば野獣や六畜が人に対し言葉をしゃべる。これは「飄風の気」がなす怪である。これを桃杖で打てば、あるいは鞋を脱いで投げつければ、怪異はおのずと消える。

 餓鬼はいつも竹籠を持って人の家にやってきて言う。「おれに飯(めし)をくれ!」。これに屨(くつ)を投げつければ、すなわち止む。

 疾風が家に入って物を取るとき、すみやかに鞋を脱いで、これに投げつける。それに当たれば、瓦盆[泥でできた容器。植木鉢のように見える]を持って路上へ行き、鬼を捕まえてそれに入れる。もし投げてあたらなかったら、鞋を路上に置く。それだけで災害が起こらないようになる。

 上に述べたように、投屨(とうく)法の主な目的は飄風や疾風を駆除すること。『白沢図』は言う、桃弧棘矢によって狼鬼を射ると、それは飄風に変化する。「履(くつ)を脱いでこれを捉える。するともう変身することができない」。履を脱いでこれを捉えるというのは、履を脱いでそれを投げつけるという意味を含んでいる。


<箒(ほうき)をふるう>

 桃[柄が桃の杖でできた箒]が秦代以前に流行したようには見えないが、秦漢代以降、ほうき(箒)が駆邪(魔除け)霊物であることは変わることはなかった。

 宋人黄休は道教徒雍法志が棕箒[シュロの柄も箒]によって人の病を掃いた故事を述べている。

 清人袁枚は箒(ほうき)によって「走尸」を倒し、箒によって白骨精を倒した故事を述べている。これらは民間の箒撃鬼法術に対する信仰を反映している。

[走尸と僵尸(キョンシー)は少し違う。走尸は移尸、走影とも言い,死後陰気がたまり、妖魔が幻化したものである。彼らは両手をまっすぐ出したり、横に広げたりし、両足はぴょんぴょん飛び跳ねて、停まることができない。また人に嚙みついて血を吸い、尸毒を移す。僵尸は、死後陰気がたまり、変異した死体。全身がこわばり、爪が黒く鋭くなり、犬歯が生えた。日光を恐れ、夜間に活動した。人間の血や動物の血を食料とした]


<魔枕を用いる>

 唐代に流行ったのは、「豹頭枕」を用いた辟邪、「白沢枕」を用いた去魅[人をひきつける魔物を除くこと]である。唐朝韋皇后(中宗の后)の妹は「七姨」と称した。七姨は豹頭枕と白沢枕を同時に使用した。また伏熊枕を作った。これによって子供を授かると考えた。韋七姨ははじめ馮太和のもとに嫁入りした。太和の死後、李(りよう)の妻となった。のちに李隆基が韋皇后を殺し、韋氏勢力を取り除くと、李邕は連座するのを恐れ、自ら韋七姨の首を斬って朝廷に献上した。

 当時の人はこれを見て「辟邪(魔除け)の枕に効果なんぞないということがわかった」と皮肉を言った。


<門神を貼る>

 秦代以前、門神を祀るのは五祀の一つだった。戦国時代以降は神荼(しんじょ)、鬱塁(うつりつ)を門神とするようになった。はじめ、代表的な門神は桃梗(桃の木偶)だった。『風俗通義』に言う。「除夜、桃人を飾る」と。神荼、鬱塁の画はなく、「桃人」が両門神の役割を務めていた。のちにはこの意味がわからなくなり、桃梗が両門神の代わりとはみなさなかった。また桃梗のほかに郁塁の画を加えることがあった。

 『続漢書』「礼儀志」は「桃梗(桃の木偶)、郁塁を設ける」と述べている。おそらく過渡期の状況なのだろう。ここでは桃梗によって神荼が表され、郁塁は画によって表示される。

 清代の兪正(ゆせいしょう)はこの書が鬱塁に触れ、神荼に触れていないことから、漢代は門神がひとりだけだったと思うかもしれない。だがこれは誤解である。あとでまたこのテーマに戻りたいが、神荼と郁塁はどちらも画で表される。後漢から魏晋南北朝にいたるまで広く流行した、唐代以降、神荼、鬱塁のほかに二人の新門神が現れた。すなわち唐太宗に仕えた大将秦叔宝(しんしゅくほう)と尉遅敬徳(うっちけいとく)である。

 宋代の宮廷で「除夜に鎮殿将軍の二人、甲冑をまとい、門神を装う。それゆえ門丞ともいう」。道士はすなわち二柱の門神をそれぞれ門丞、戸尉と呼ぶ。人が門神を装うのは、鍾馗に扮して鬼を捉えるのと似ている。これは門神駆鬼法術の新しい形なのである。

 清代末期、富察敦崇(ふさつとんすう)が言う。北京の人は門神に対し、「神を祀ろうとしない」。これは人々が門神を真正の神とみなさなかったということである。一種の巫術の道具と考えていた。


(ぜん)という字を画く>

 唐代の人は門に虎の頭を画き、という字を書いた。俗にこれは「陰刀鬼」の名であるという。これを門に書けば瘧(おこり)や癘(えやみ)を避けることができる。

 段成式が『漢旧儀』のなかで言う。疫鬼駆逐の方法は「桃人(桃木人形)、葦(よし)の索(つな)、滄耳(の文字)、虎(の画)」などで門を飾ることである。「聻」は「滄」と「耳」を合わせた文字である。

 唐の張読編纂『宣室志』は「聻」字の起源に関しては別の解釈をする。

 李道士は術士馮漸(ふうぜん)を非常に敬服していた。唐代宗の大暦年間に李が親しい友人に宛てて書いた書信のなかで言った。

「当今、鬼を制するに漸耳以上の者はおりますまい」

 この馮漸の名は瞬く間に広がり、長安城内の家々の門に「漸」字あるいは「聻」字が書かれるようになった。唐代以降、書聻鎮鬼法術は術士が伝えた。

 明の陳継儒は『太平清話』の中で書く。宋の神宗煕寧(きねい)年間に、柳応辰が湖南の語渓山の麓に泊ったとき、夜、「(かい)」の字符を用いて妖怪を駆逐した。出発にあたって、柳は当地の和尚に聻字を書いて贈った。術士は聻字によって疫鬼を駆逐するだけでなく、すべての妖怪を鎮圧することができた。聻字の耳は、もとは鬼で、元来「斬鬼」を合わせた文字だった。符籙にはその文字にサンズイが足されたものが書かれた。


<周易をよむ>

 『北史』「権会伝」に言う、権会[500575? 北朝斉の文人]は長い間『周易』を研究し、筮占(めどき占い)の術と風角法[風の変化から未来の吉凶を予測する占い法]を得意とした。伝説によると権会は若いとき、夜、ロバに乗って町を出たところ、二人の怪人に案内されて走り回り、だんだんと道がわからなくなった。権会は奇怪なことだと感じると、「『易経』上篇第一巻を読誦した」。なお権会はこの書のこの部分を完全に覚えていなかったので、怪人がどこへ向かおうとしていたのかわからなかった。

 宋代の鄭文宝『南唐近事』にこれと似た故事が記されている。江都県の庁舎内には妖怪変化がとりついていた。歴代の県令は庁舎に入るたびに瓦礫を投げつけられてケガをするのが常だった。江夢孫が県令に就任すると、前任の県令と同じ轍は踏むまいと、夜、庁舎内に襟を正して坐り、『周易』を朗誦した。すると、妖怪変化は二度と現れなかった。

 この二つの故事で『周易』を読誦するのは、いわば駆鬼法術である。権会、江夢孫ふたりとも、『周易』の神秘的な力によって妖邪を鎮めることができるかどうか試している。彼らの手の中では、『周易』は桃茢(桃木のほうき)、白茅(白いちがや)、牲血(家畜の血)、汚物と同じような霊物である。伝誦や記録によれば、怪異が消えたのは、『周易』のおかげだという。彼らは鬼神を信じていないどころか、鬼神が邪鬼に勝つと信じていた。これと同じ理屈で先天八卦図を用いて妖魅を鎮める。これらはみな『周易』崇拝から生まれた巫術行為といえそうだ。


 以上の霊物のほか、雄黄、朱砂もまた古代の巫医がつねに用いた駆鬼の道具である。薬効があったので、それらは霊物とはみなされなかったが。求雨のための蛇、トカゲ、カエルなど、愛を導くための花、草、鳥、虫など大量の霊物が用いられてきた。その個別の巫術的効用は専門的な話になるので、次章で詳しく述べるとしよう。